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もりげコラム
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卑近な例から語る文化人類学 |
Date: 2002-07-07 (Sun) |
文化人類学、というやつを取っている。うちの学校に来ているN先生というのは実はかなり偉い人で、世界中の数々の社会で実際に暮らした経験を持つという。150種類の言語を操るらしい、などという驚くべき噂も耳にした。他の「文化人類学」を受講したことなどないので確かなことは言えないが、彼の講義は一風変わったおもしろいものであるように思える。
以前、アフリカのある部族の文化について彼が話してくれた。その部族の男は、みなヴィクトリア朝様式のドレスを着て生活せねばならないという(ちなみに、女は別におしゃれなんかしない)。そして、人に挨拶をするときは礼儀として寄り目になりながら挨拶しなければいけない。なぜ寄り目……? さすがのN先生も、ドレスで着飾った男たちにに寄り目で挨拶されたときはかなり焦ったという。
ぼくらの目には、その部族の習慣というのは相当奇異なものに映る。しかし、実際のところどうなのだろう。そもそも文化というのはまったく壮大な虚構である。ぼくらにしても、自らの社会の中にどっぷり浸かってしまっていて、そのあまりのばかばかしさに気づけないでいるだけなのだ。
これもまたN先生の話だが、身につける服飾品は「へその下にひも一本」だけの社会があるという。ところが、その一本のひもさえ文字通り一筋縄ではいかないのだ。たとえば、そこの住民のひとりがその「ひも」を3センチ低めに巻いていたとすると、周りからは「だらしがない」「ふしだらだ」などと非難されることになる。逆に3センチ高めに巻いたら、「偉ぶって」「何様だ」などとこれまた批判の対象となるという。
人間というものはどんな物事にも意味を付与したがるのだ。そして、すべてがストーリーになってゆく。それが我々の精神世界の豊饒の源でもある。
さて、話はがらりと変わる。
ある日のこと。ぼくは1日の授業を終え、大学を出ようとしていた(ちなみにぼくが通っているのは某音楽大学である)。と、見知った女の子が。
「Aちゃーん」
声をかけてみる。
「今から帰り?」
Aちゃんは同級でオルガンをやっている子だ(もちろん本名は出せないけど、実はかなり可愛い名前の子である。字面もいいし、ひとひねりした読み方もいい。少女漫画のヒロインにつけても見劣りしないような名だ)。だいたい遅くまで学校で練習をしているみたいで、大抵まっすぐ帰るぼくは一緒に帰ったことなどない。
「あ。ううん。まだ」
Aちゃんは首を横に振ってそう答えてから、ぐっ、と両の拳を握って
「今日はね、このあと、カザルスで、練習してきます!」
と宣言するように言った。きゅ、と唇を結んでみせる。ハリー・ポッター役の男の子に似ている、と周りから言われていた彼女である。そんなまじめな顔が実に似合う。
オルガンというのはなかなか家でできるようなものではない。学校に遅くまでいるのもそのためだ。それに加え、たまには大きなパイプオルガンで練習する必要もある。だから定期的に教会やホールを借りて使わせてもらう。オルガンを勉強するというのはそういう大変なことなのだ。
彼女は今度カザルスホールで演奏会の予定があって、そのために特別に現地練習の機会がもらえたらしい。
「でもねぇ、あそこの楽器は本当にすごくいいんだ!」
「そうなんだ?」
ちなみに、カザルスホールは日大芸術学部に買い取られることが決まっていて、今後は一般にあまり公開されなくなるかもしれない。彼女がその名器を弾く機会ももうないかもしれないのである。
「わたし、この前はじめて弾かせてもらったときね、あんまり素敵なんでなんか涙でてきちゃってさ……本当にそんくらい良い楽器なんだよ」
そう繰り返すと、あはは、と照れたようにAちゃんは笑うのだった。ちょっとどきどきした。拳を握る仕草のかわいらしさからしてぼくはかなり参っていたのに、これだ。本当に参った。
眼鏡の向こうのまっすぐな目、化粧気のない顔、後ろで簡単に束ねただけのストレートの黒髪、華奢な身体つき、きびきびした動作、ちょっとかすれたような声。……あんまり細かく描写してると暴走しそうなので自制。ともかく、このときぼくの胸に去来した感覚というのは限りなく「萌え」に近いものであった。大学生になったって可愛い子は可愛い。
……いちおう本人に断って書いてはいるが、よもやこんな文章だとは思ってないだろうなぁ。……いいのかなぁ。
さて、ここで話ははじめにつながる。なぜ彼女を賞賛したいのか。実は、それはぼくがそういう文化に生きているからなのだ。文化という幻想の中で、特定のものを嗜好するように方向づけられているだけなのである。――きっとそれは真実だろう。しかし、そのことを認識するのは恐ろしくもある。
たとえば。こういうのはどうだろう。
コニー(=konishiki)体型で声だけ幼女のように甲高いその女は、『ときめきメモリアル Girl's side 』をクリアし終わったところのようだった。くもった眼鏡。分厚い唇。せわしなくその唇を湿す赤黒い舌。薄汚れたキャラものTシャツにたまったフケ。
ちなみに、彼女はこのゲームの出資者のひとり。それも配当金目当てなどでは決してなく、大好きなゲームに出資できること自体が幸せなのだ。
「本当に感動したわ! それにね、あたし、最後のスタッフロールのところに出資者として自分の名前が出てきたとき、なんか涙でてきちゃってさ……」
きんきんと高い声をさらに張り上げて彼女はそう言い、きゃはきゃはと笑った。
同じだ。どちらも自らの大好きなものについて純粋な思いを語る女の子。Aちゃんとこの女は同じだ。……そういうふうに思えますか? あなたの枠にはまった思考を解き放てば、こういう女に萌えることだって可能だと、そんなふうに想像できますか? この女への我々のそこはかとない嫌悪感が、文化の生み出した虚構のひとつだと、想像できますか?
すべてを相対化すること――それを試みるのが、N先生の文化人類学を受講する者に与えられる試練のひとつだ。
ぼくは、人類普遍の絶対的価値基準がどこかにあってほしいと、そう願わずにはいられない。そんなものはそれこそ幻想だ、と重々わかってはいるつもりだ。それでも、ぼくは上記のコニーよりAちゃんが何らかの意味で絶対的に優れているはずだ、と言ってしまいたくてたまらないのだ。
みなさんは、どう思いますか?