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もりげレビュー


  留学する人々 Date: 2002-10-06 (Sun) 
 音楽、それもクラシカルミュージックなんぞをやっていれば、本場は欧州であるとそれはもう決まっているわけで、そうすると身近にもすでに留学生活を送っている知己が何人もいたりする。
 とある国に留学中のとある女性とはたまにメールのやりとりなどする仲で、そして彼女は夏休みは日本に帰ってきていたのであって、この間その彼女が再び留学先に向かう前にいちど友人連中何人かで会おう、ということで友人連中何人かで天ぷらを食いに行った。ちなみに天ぷらはなんと彼女の奢りであり、何だ、男が女の金で天ぷらを食うとはけしからん、などと思う向きもあるかと思うが、そこはまた事情があるのであって、それを説明しようとすると話は長い、ある春の嵐の夜のできごとなどから始めねばならなくなるので割愛する。
 さて、ここからは彼女に聞いた話だ。彼女の留学先である、とある国のことばというのが難解なのだそうで、固有名詞まで変化してみたり、複数形は1〜4,5〜10,11〜15,そしてその上で形が違うなど、この辺りうろ覚えなので正確ではないが、ともかく無駄としか思えないほどややこしく頭に入れようがないのだという。もともと英語のできる彼女はそれで間に合わせ、1年を経過してその国の母語を解するようになる気配すらないようなのであった。
 ある日、彼女がひとりで空き教室で練習をしておったところ、そこに頭の禿げた男が数人の生徒を引き連れて闖入してきた。ああ、これから授業で使うのだろうか、それなら練習を切り上げねばならぬ、と考えた彼女は、その禿を指さしながら「レクトール?」と尋ねた。彼女の記憶に依ればレクトールというのはその国の母語で授業という意味だったはずであり、すなわち彼女は「あなたはこれからここで授業を行うのか?」と尋ねたつもりなのである。質問をするときに相手を指さすというのは少々けしからんと吾輩なぞは思うが、彼女はいささか礼儀にかけるきらいがあり、ただし私は彼女のことは尊敬もしているし好もしく思っていることは断っておくが、いずれにしろ彼女は禿を指でさしながら「レクトール?」と尋ねたのだった。
 ところが、この禿がわけもなく憤怒した様子で彼女に向かってその国の母語をまくしたてだした。もちろん彼女に意味の分かるはずもなく、ただどうも無礼者、とののしられているらしいことはおぼろげながら解することができたらしいが、なんにしろとりあえず質問に答えてもらわないと困るのは彼女の理屈なのであって、いささか短気で攻撃的な性質である彼女は、ただし吾輩は彼女のことは尊敬しているし好もしく思っていることは断っておく、とにかく彼女は前にもました語調で「レクトール?」を繰り返すばかりなのであった。その禿を指さすことも忘れずに。
 その場はあえなく互いの意志の疎通を見ずに結局彼女は追い出される形となって終わったのだが、後日彼女はレクトールなる単語の正しい意味を知ることとなった。レクトールの表すものは授業ではなく学長だったのであり、ついでに彼女が知らなかったことはもうひとつあって、あの禿こそが彼女の通う音楽院の学長だったのである。
 つまるところ、彼女は学長を面と向かって指さしながら「あんた学長?」と繰り返し尋ねていたのであり、哀れな禿が憤激するのも無理のないことなのだった。
 英語のレクチュアとあれほど似た言葉にまるきり違う意味をもたせるその国の母語が悪いのだ、と明らかに思っているらしい顔でこの話をしてくれた彼女を見て、ああ、吾輩の小心と無能では留学など難しいことだろうよと思ったことであった。

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