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もりげレビュー


  04年1月後半雑記 Date: 2004-01-17 (Sat) 

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雑記

1月16日
 引きこもってフーガをやって一日が終わった。

・・・
 というわけで昨日の話題に今更触れて分量水増し。

「宇宙開発」
 別に、どんな政治的思惑が裏にあったとしても、宇宙開発が進むのならステキなことだと思います。

「芥川賞・直木賞」
 読んでないのでパス。高橋源一郎さんも誉めてたので、きっと素晴らしいのに違いありません。
ブンガクとして回収され得る思春期ってのは羨ましい
って、そうですか? もうラノベやなんかのまっすぐな青春には戻れなくなっちゃって悲惨な気がするんですけど。
 スタニスワフ・レムの言葉を引用しときましょう。
「現代文学はほとんど無についてのすべてであり、現代SFはすべてについてのほとんど無である」
 ああ、これ、アメリカSFを批判したときの文句だそうです。

1月17日
 ああ、どうやら神様はわたしに嫌がらせをすることをかなり楽しんでいると見える。くそ。この先に行きたいのに。

・・・
 昨日の、V氏が「ブンガク」を本気で羨ましがってるわけないですね。というか、実際に作品を読んでないばかりに判断つかなかったでつ。V氏が綿矢を読んでいたということ自体が驚きだったり。

・・・
 雪、積もり始めた。

1月18日
 伊東岳彦『宇宙英雄物語』のディレクターズカット版まとめて買ってきたよ。

・・・
 運動だと称してちょっと遠い本屋までジョギング、というわけのわからない行動をたまに取るようになった。しかし、ジャージ姿でないばかりか、コートを片手に抱えて走る私の姿は道行く人々には極めて奇異に映っていることだろう。なにしろ目的地である本屋では立ち止まるわけだし、その本屋の立ち読みスペースは店の外にある。コートも持っていかないと凍え死ぬ。
 だから今日の帰りなど、片手に漫画が5冊も入った本屋の袋を下げ、もう片手にやはりコートを抱えて、えっちらおっちら15分走った。暗かったから、顔とかは見られていないと思う。
 脳内彼女に誓った「運動するよ」宣言は、こんなアホな形でしか実現されていない。

・・・
 小西寛子じゃないから見ないと言う方がおられるが、堀江由衣は想像以上に雰囲気出していた。ガッカリはしないと思う。

1月19日
 もう単位はほぼ足りているので学校の講義なんてもんはほとんど取ってないのだけれど、まったくゼロというわけではない。
 月曜にひとコマだけとっている講義、昨年の最後の授業は旅の空でさぼり、ついでにその前の授業も実技の関係でさぼり、さらには今年最初の授業となるはずだった先週はといえば「成人の日」で、講師に
「おお、大きくなったねえ」
と声をかけたくなるくらいの久しぶりの対面だった。

 俺は、久しぶりにあう講師の顔に、懐かしさのあまり、うれしさのあまり、輝くような笑みが浮かぶことを期待した。「会いたかった、もりげくん」と言ってくれることを期待した。

 なにしろ講師は頑張りやでちょっとドジな眼鏡っ娘、上品なバレッタで後ろをひとくくりしただけのストレートの黒髪もつややかな美少女じつは超天才、なのだ。
 という設定は今考えたのであって、実際はただの影の薄い、そろそろ中年の域にさしかかろうかという男で、きっと学生時代は全然人に相手にされず、かといってわざわざいじめられるでもなく、ひたすら影の薄いまま育ってきたんだろう、そんな人物だ。
 なんだこの違いは。俺の美少女講師を返せ。

 いやまあそれはそれとして、ともかく久しぶりなのだからそれなりの感慨くらいあってしかるべきなのじゃないか、と俺は思ったわけだ。
 しかし、なんと講師はそんなこと言わないばかりか、俺の名前を呼びすらしないで出席を取り終えたつもりになっているのだった。あ、少人数クラスなんで出席とるんですよ、名前よんで。

 仕方がないので、おずおずと、日本人特有の笑みを浮かべながら俺は手を挙げて発言した。
「あのー、呼ばれてないんですが」
「え? あ、そう? あれ、呼んでなかったっけ……」
彼は出席記録表に目を落とししばらく見ていたが、新たに印をつけるでもないままにテキストを開き、
「……はい、ではね、まずはテストの範囲を――」
とかやりだした。おい。おいおいおい。おいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおい。今会話したばかりなのに忘れてるのか? か、影が薄いのは俺だった!

 俺の前に座っていた見知らぬ女性が
「あのー、彼が名前呼ばれていないって」
とわざわざ注意を喚起してくださった。講師は、もう対応は済んでいると言いたげに、
「え? いや、呼んだでしょ、川上君」
と俺に向かって言う。確かに彼は川上君の出席を取っていたが、断じて俺は川上君ではない。俺はさらに日本人特有の満面の笑みを浮かべながら、おずおずと
「あの、いえ、ボクもりげです」
と主張してみた。しばらく彼は俺の顔をまじまじと、しかし胡散臭そうに眺めたあと、出席記録表に視線を戻して検分を始めた。
「あれ、え、ええ、え、もりげくん……。……。……あ、あれ? どうしてだろ。ごめんなさい。はい」
ようやく彼は出席記録表に何やら書き込み、俺に謝ったのだった。

 俺はこの世界から消えかかってでもいるのだろうか。

1月21日
 昨日はルータがいかれていたようで繋げませんでした。二日分まとめて書きます。

・・・
「がんだむしーど、だいすき!」
と彼女は言った。あああ、これが所謂腐女子ってやつかあ!
「でも、いちばんすきなのはうぃんぐ!」
おおおお、ホンモノだぁ!

・・・
 オルガンを聴いてきた。クライマックスの大音量に圧倒されて毛穴ぞわぞわさせながら、ふと、オルガン音楽への感動の一部は、あのようなすべてにおいて巨大な楽器を完成させてしまう機械工学への崇拝の念から来るのではないか、と思った。

・・・
「はいよ、釣りはいらねぇぜ」
「へい、お釣り!」
「おい、釣りはいらねぇってばよ」
「へい、もいっちょお釣り!」
「なにやってんだよ、釣りはいらねぇっつってんだよこのくそったれ!」
「……失礼ながら、くそったれはお客さんの方でやんす」
「はっはっは、こりゃ一本取られたな」


 便所にて、便器との小粋な会話。

1月22日
 あれですかね、金原氏が叩かれないのは、文学が彼女にとって実際に救いになっている様子がうかがえるからですかね。
 綿矢氏が叩かれるのは特にそのような風もないせいですかね。

 文学というのはもっとも底辺に位置する作品表現の形態じゃないのかい、とうちの母が言ったのがおもしろかった。実際そうなのだろう。別にけなそうというわけではなくて、実際、誰もが影響を受けているその時代の空気をそのまま書けば文学として評価されるのだから、ある意味「作品」としては一番単純でしょうね。

「世界とは」とか、「自由意志は」とか、「知性とは」とか、そんなことを考え出すと、それは高尚な内容になってしまうので、底辺であるところの所謂文学では描けない。じゃあそんな作品は何か、というと、たとえばスタニスワフ・レムであったり、グレッグ・イーガンであったりするわけです!

 (↑戯れ言なのであんまり本気にしないでください。)

 まあ、そういうわけで、これほど皆に打撃を与える綿矢作品はちゃんと読んで感想書こうと思います。暇があれば。

・・・
 十兵衛ちゃん2いいなあ。小気味よいテンポ、アニメという表現媒体を知悉した上で放たれるギャグ。ふっとシリアスになる瞬間も置き去りにされたりしない。
 第1シリーズ知らない人がどう見るのかわからないけど。逆に第1シリーズに相当の思い入れがあるとまた違うのだろうし。

1月23日
 シオドア・スタージョン短編集『不思議のひと触れ』読了。うまい! うますぎる!!!!

 ちょうど『海を失った男』と続けて読んだので、今週はスタージョン週間という感じでした。何が上手いか良くわからないくらいに上手い。一編一編を読み終えたときのこの充実感はなんだ。
 もちろんアイディアも優れているし、プロットだって見事な物だ。でも、プロットだけ他の作家に渡して書かせてみても、たぶん元の作品には及びもつかないものができあがるだろうな。何気ない瞬間を、まさに「活写」としか言いようがないやり方で描き出す。言葉の魔術師、でもあるのでしょう。原語で読んだらさぞかし圧倒されることだろう。

 表題作なんて、ちょっとおかしなきっかけで二人の人間が出会う、というただそれだけの本当に全然大したことのない短編のはずなのに、読み終わるとあまりの美しさに溜息が出る。
 非常に印象に残ったのが「ぶわん・ばっ!」。あるジャズドラマーが語る、O.ヘンリーにも勝るような意外な結末の物語。その意外さがまた心地よすぎて、思わずにやりと笑った。

 ついでに『海を〜』からもひとつ挙げると、「墓読み」。墓を読む、というモチーフからこれほど深い感動と暖かみを感じさせることができる作家なんて、いません。


 ああ、それから、大森望氏も後書きで書いているとおり、いくつかの作品はヒキオタ気味の人間にとっての願望充足小説として用立てることができる、ということもひとつ強調しておきたいです。今の時代の精神を先取りしていたということでしょうか。
 すべての孤独には終わりがある――ツンドラー諸氏、必読ですよ? 読後に現実を見てさらに切なくなっても責任は取れませんが。

 私は、不思議のひと触れ熱烈大歓迎募集中。

1月24日
 やっぱり火星には何かがいて、人類の探査を妨害してるだろ?

・・・
 ピアノの弦張ったついでに、余ったピアノ線で折れたヘッドホンの外骨格を構築してみた。たぶん、生命体だったら真っ先に滅ぶであろう粗雑な外骨格ができあがった。それでも、耳に密着しなくなっていたのがだいぶん改善されたので、目的は果たしたと言えよう。

・・・
 くそー。不思議のひと触れ募集中だって言ってるじゃないですかー。頼みますよー。

1月25日
 この膝の黒々とした打ち身はなんだ。いつできたんだ。いや、それとも打ち身なんかじゃないのかもしれない。中で骨が腐ってるとか。

・・・
 今場所の朝青龍は圧倒的に強かったな。いくら批判されようが、実力があればそれでいいわけですよ、世の中。人気があっても弱くちゃやっぱりだめなわけですよ、某関取のごとく。

・・・
 ここ一番にかけて失敗して、だけどそれを自分の人生の中にどうにか位置づけなければならない。納得しなければいけない。そういうことは多々あるけれど、失敗の瞬間というのは端から見ていても辛いものだ。たとえば、今日の大阪国際女子マラソン、2位でゴールした直後の千葉真子選手の表情とか。
 意気揚々と立てたプロットが無惨にも世界に破壊されてしまったあと、それを繕ってゆくときには、自分を騙す必要があったりもする。そんなことどもを含めてなお、あなたはあなたの人生の物語を許容できますか。してみせますとも。この世に音楽のある限り。

1月26日
 活字倶楽部の作家アンケートの滝本竜彦氏の文章を読みながら爆笑した。別に活字倶楽部は毎号チェックしてるわけでもないけど、この作家アンケート企画は結構おもしろいのだ。昨年もたしかここで話題にしたな、と思ったらやっぱりしていた。

 彼は、アンケート回答の才能があると思う。小説家としてより、アンケート回答者としての才能の方が上なのではないか、と思えるほど、その力量は尋常ではない。いっそのこと、滝本氏にさまざまなアンケートに答えてもらい、それをまとめて一冊の本として売ったらどうか。すばらしいものになるはずだ。

・・・
 それはそうと、石田衣良氏が、印象に残った本として『あなたの人生の物語』さらに『マルドゥック・スクランブル』を挙げていたのが少し意外だった。そういう読書もする方だったのですね。ついでに言うと『重力ピエロ』なんかも挙げていた。
 文学の方々はジャンル小説など読まないんではないか、という偏見を持ちがちだが、そうでもなかったりする。川上弘美氏など、新聞書評でグレッグ・イーガンを取り上げていたり、自身のSF趣味を公にしてますし。純文学の人々は、案外と視野の開けた方が多いのだ。

 そんなわけだから、ジャンル小説愛好家だって、ちゃんと純文学にも目を向けないといけないなあ、と思った。川上氏あたり手を出してみるか……。

1月27日
「吐瀉物をぶちまけてやる!!!」
 とその猫は叫び出して、早速えぐえぐとえずき始めた。ちょっと待て、俺の部屋の絨毯をぐしゃぐしゃにするのは勘弁してくれ。とっさに猫を抱きかかえ、投擲体勢に入ろうとしかけたが、その瞬間ふと迷いが生じた。

 最近、俺は自分の運動神経に対して、極めて強い不信感を抱き始めているのだった。先日、親戚の家に泊まった際にダーツボードを見つけて、ひさしぶりにやってみた。すると、あろうことか、ダーツの矢は的を外れてはぷすぷすと壁に穴をうがち出したので、俺は即座にその楽しい遊びを中止した。遠目にその穴が目立たないことを確認した後、手で丁寧に矢を的に突き刺して口笛を吹いた。ちなみに俺は口笛がとんでもなく下手だ。

 そんなわけで、私はコントロール良く猫を部屋の戸の外に投げ飛ばす自信がなかった。加えて、この猫は老猫である。うっかり戸口の縁への衝突軌道に乗せようものなら、どんな怪我をさせてしまうやもしれない。兆す不安に止まる手。

 仕方がない。抱いたまま部屋の外へ走ろう。だが、そう判断したときには既に遅かった。俺が走り出すのと同時に、吐瀉物はまき散らされ始めた。俺が走るその軌跡をなぞって、それはぼたぼたと絨毯にしみこんでいった。
 とっさに立ち上がったため、かけていた膝掛けが俺の足にまとわりついたままで、そこにも容赦なく臭気を放ちながら襲いかかる液体。あるいは崩れかけた固体。

 すべての希望をうち砕きながら、猫はじょばじょばぁああ、と胃の内容物を広い世界へと返し終え、そして俺は泣いた。

1月28日
 最後のレッスン。

 調性音楽の機能和声を、音同士の距離、引力としてとらえるやり方を語ってくれた先生はステキ。

 機能和声ってのは、たとえば、お遊戯の時間に先生が「どーしーどー」と弾くのに合わせてお辞儀をした経験っておありでしょう。あの「どー」が「トニック(T)」と呼ばれるもので、「しー」が「ドミナント(D)」と呼ばれるもの、それに「サブドミナント(SD)」というのを加えて、全ての調性のある音楽の成り立ちをその組み合わせで説明する考え方なんですね。
 DはTに解決しようとする力を持っている、というのがすべての音楽の基本になっている、というわけなんです。

 で、先生おっしゃるにはその機能和声の引力を楽しめない演奏家が最近増えているようだ、と。

 ここで脱線して、現代の社会についての話に発展。インターネットや携帯電話といったものによる「距離感の喪失」が、生きる上でも、音楽をやる上でも、少なからぬ影響を及ぼしているのではないか、と言うのですよ。これは結構おもしろい意見だと思った。何かから遠く離れる、というような感覚は、確かに失われつつあるような気がする。そうすると、「どこにも到達できない」という閉塞感は、「どこからも遠く離れていないはずなのに」という感覚があることによって、逆説的に増幅されているのに違いない。

 って、あれ? 音楽と関係なくなってるぞ、話が。

1月29日
 オケにエキストラでちょこっと乗ることになり、今日はその練習。まあ、アマオケなんですけどね。オケいいなあ。楽しいなあ。

・・・
 毎日新聞のコラムで、村上隆氏が
「サイファイ文化」(SFとファンタジーを総称して呼ぶ)
などと書いていて、それ違うから! と呻いてしまった。梅原氏は近頃とんと噂を聞かないが、どこでどうされているのだろうか。

・・・
 朝からパソコンで自分の名刺のデザインをやり続けたからだろう、目が疲れすぎて今すでにモニタの文字も読めないような状況だ。こうしてまた視力を落としてゆくのだろうか。さっさと寝よう。

1月30日
 浅暮三文『針』読了しましたが。鬼畜陵辱系エロ小説。以上。
 どうなんだろうか、これ。小説としてはどうかと思いますよ、実際。

 いわゆる感染症系のハザード物の形を借りつつ、内容は五感シリーズの「触覚」なわけですが、まあこいつが快楽へと展開するのは仕方ない話なのかもしれない。エロ度を高めるために、乾いた筆致で執拗に感覚描写をする、というのはひとつの手法としてありますし、その点異常なまでの感覚描写能力に定評のある作者なら一級のポルノにもなるはず。

 しかし、そういう描写で快楽の彼岸まで到達できたか、というとかなり微妙。逆に、主人公が触覚に目覚めはじめた頃の、デパートでいろいろ触って喜んでる描写の方が力強いくらい。そこの魅力を除けば、普通のポルノ小説として読む以外に評価のしようがないと思う。

 Jコレは一応ぜんぶ感想書こうと思ってるので一応書いてみました。ただのポルノにしちゃ費用対効果が低くないですかね……。

 いずれにせよ、18禁にしとかにゃいかんと思います。
 あれ、でも小説ってそういうのないんだったか。フランス書院とか、小学生が買ってもいいんだっけ? よくわからない。

1月31日
 足りない物。客観性。冷静さ。一歩引いて見られないと、アンサンブルは難しい。

・・・
 面白いほどに人を集めている大道芸人がいた。ついついちょっと人垣から覗いてしまった。漫談の才能のあるジャグラー、というのが彼の正体だった。

 さて、私がこの人垣に加わってみた理由は単純で、やたらと大勢が集まっていたから、というだけのことだ。こうして人の輪に加わっていく人はかなり多いようだった。逆に、人がほとんど見ていない人形師がその近くにいたが、横目で見ながらさっさと通り過ぎてしまった。立ち止まろうという人はほぼ皆無だ。

 大道芸を見物する人数の時間的変化について、数学的に解明することができるのではないか。人垣の人数が多いほど、増加率は増えるだろう。一定以上の客を集めた場合、その数はさらに指数級数的に増加するのかもしれない! しかし、あまり人垣が厚くなれば、外側の人間は何も見えなくなり、人数の増加も限界をむかえることになる。

 ここで実際に人の行動についていろいろの仮定をしながら式を書ければ格好いいのだけど、私には無理。オチがなくてごめんなさい。


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