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もりげレビュー


  04年2月前半雑記 Date: 2004-02-02 (Mon) 

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雑記

2月1日
 某所の粘着、わたしが勝手に考えたところでは、滅・こぉる氏と懇意にしているのが気にくわないのではないかな。つまり、たぶん滅氏の崇拝者。あと多分関西出身。って、これに関してはちんことお○こ、と書いてあったのを見かけてそう思っただけなんで、根拠はほとんどありません。

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 さいきん気になっていること。ニュートン力学が、物理法則の極めて正確な近似になってるのはどうして?

2月2日
 一時の物と割り切ってもなお、恋愛という幻想が救いになるんだと信じ込んでしまったらしい友人がいて、ひとこと思いっきりバカにしてやろうかと思った。いや、あの話だとそもそも「恋愛」って言い方は正しくないか。

 ともかく、今の君はサッパリ人間として魅力的じゃないぜ、とか、そんなことしてて生きてるのいやにならないの? とか、そんなようなことばが頭に浮かんだ。

 しかし今その人はいろいろと辛い状況にあるし、大体に置いてぼくが相手を侮辱した場合、それが好意からの率直さなのだといくらぼくが言い訳したところで、いつだって相当に相手を傷つける結果になってきたのは確か。だからまあ、君は社会の作り出した幻想に踊らされているのだよ、などとしたり顔で言ってみた。人生経験が圧倒的に不足しているぼくにいろいろ相談するのはどうなんだ。

 永遠の愛なんてものを本気で信じてたような以前の方がずっと素敵だったのだ。その危うい幻想は、しかし現実によって壊されて、結局彼女にとっての世界観は転換した。だからってなあ。理想が存在しえないものだったとして、それをまったく完璧に捨ててしまうのは、それはそれでかっこわるくないか? と思えるのだけれど。

 世の中、生殖機構に立脚した救いの物語に感化され過ぎ。それもどろどろしたやつ。どうせなら、みんなジュヴナイルを読もうよ。ボーイ・ミーツ・ガール、世界が輝く。そういうの以外禁止。

2月3日
 こんなしょーもない教師に、一度くらい習ってみたかった。ヤミ金を逆に脅してやろうという発想がカッコイイ!

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 今日ふたたびこの話題に触れられていたのを見て、反応しようと思って忘れていたことに気づく。握り心地のためだけにある商品、実際にそういう品物持ってます。

 ただ、説明を読むと「怒りを感じたときに握りしめると、その感触とラベンダーの香りで気持ちが落ち着きます」みたいなものなので、純粋に感触だけを追求したとは言えないかもしれない。表面は合成繊維の布。適度な張りを持ちつつも極めて柔らかい楕円球から、中に微細なプラスチック球らしきものがぎっしりつまった細いツメが3本突き出したような形状。このツメを指の股に挟んでギュッギュッとやるんですな。プラスチック球がしゃりしゃりこすれる感覚も結構これが良いのです。これで究極的な握り心地とはまだまだ言えませんけれど。

 しかしこんなものをおみやげに買ってこられた私は、怒りっぽい人間だと思われていたんだろうか。今更ながら疑問。

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 電車の中で、女子中学生ふたり連れを見かけた。片方は化粧をしている最中。「んあぁあ?」と言いたげな表情をしていた。女子中学生は化粧禁止! 電車の中で化粧直しも禁止! 気分を害した俺に追い打ちをかけるように、そいつらの会話が耳に飛び込んでくる。

「えー? でもさー、クルマ持った男とつき合ったこととかあんでしょ?」
「えー? うん」
「えー? あのさー、やっぱクルマあるとデートとかんとき超ラクだよねー?」
「えー? まあねー」
「えー? チャリとかだとさー、ダサいってゆーか」

 コロシテイイデスカ?

 吹奏楽部に入ってコンクール目指して鳴らないホルンを必死で近所の川縁で毎日練習するとかさ。

 ソフトボール部に入ってトレーニングの毎日、筋肉ついちゃってあこがれの生物部の先輩にはきっとこんなガタイじゃ振り向いてもらえないな、なんて思いながらも、やっぱり親友と一緒に頑張るんだ、と大会目指して結局行けなくて泣いて、でもその涙はどこかしら気持ちの良いものだったんだよ、とかさ。

 少年漫画誌で連載中のテニス漫画におおはまり、興味はテニスじゃなくて王子様に対する方がメインだったもんで授業中にいつも王子様の顔をノートに描いて、でもなんだか綺麗にできない、しかも手とかを描こうとすると途端に露呈する自分の絵心のなさが悔しくて、少ないお小遣いをお菓子我慢してためて、『漫画の描き方』なんて入門書をしこたま買い込んでGペンと格闘、そうこうするうちにいつも見て見ぬ振りをしてたいじめられっ子が実は自分と同じ趣味の持ち主だったことがわかって、ふたりで「漫画同好会」を立ち上げていじめに立ち向かう、とかさ。

 そんな風に、女子中学生にはいろいろと有意義な過ごし方があるだろう、と。化粧してクルマ持ちとデートしてる暇があったら有意義に過ごせよ、と。いやだ、純情可憐じゃない女子中学生なんてヤダヤダ。いらない。

2月5日
 風邪です。最近ことあるごとに消化器系が異常を来すのは勘弁してほしい。本気で辛いです。

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 招待制コンクールでアフリカ行ってたという友人が送ってくれた写真など見つつ。とりあえず外を見てこないことにはもうどうしようもなさげな自分。本当に俺はどうにかなるのか。できるのか。駄目だな。最近『グミ・チョコレート・パイン』なんか読んだせいもあるんだろうけど。追いついてみせるんじゃなかったのか。自分は他とはひと味違うんじゃなかったのか。逃避しよう。うつしよはゆめ。夜のゆめこそまこと。

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 何にせよ、まずは風邪なおさんと。

2月6日
 アフリカは、中流階級でもプールつきの家に住み、庭師とメイドを雇っているらしい。メイドか。メイドはいいね。メイドのためにアフリカに行くか。メイドデリバリー。(小宮日記さん経由で)

2月7日
 頭が弱っているときの文章は消しておいた方が幸せなのだけど、どの辺まで頭が弱くない文章として認めるか、というのも難しい問題だし、自分の書いたものに責任を持つというのはまあ、つまりは全部そのまま残しておくということなのかもしれない。

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 チャンドラー・バールの『匂いの帝王――天才科学者ルカ・トゥリンが挑む嗅覚の謎』というのを読んでいたのだけど、これは途方もなく面白い。嗅覚受容体は電子トンネル効果を利用した分光器として機能している、という異端(と思われていた)アイディアを追求する科学者、ルカ・トゥリンを追った一般科学書なのだけど。

 ――嗅覚受容体というのはGタンパク型で、これは匂い分子の形状に反応しているというのが通説だった。しかしどうにもうまく現実と折り合いがつかないんで、じゃあ匂い分子の形状の部分部分に選択的に結合する受容体があって、それらの反応の順列組み合わせで匂いを処理しているんだろう、という結構苦しい説明がなされるようになっていた。そこに、トゥリンが唱えたのは「形状ではなくて、分子の振動数による識別が行われている」という驚くべき説だった。

 なんて内容以前に、学問の境界を簡単に乗り越えるトゥリンのエネルギーあふれるキャラクターがまず魅力的。あらゆる匂いを的確にことばで表現する類い希な才能を持ち、それを活かして書いた香水ガイドの的確さから「匂い産業」の裏まで立ち入りを許可されるようになる。

「匂い産業」というものの実体もこの本で初めて知ったのだけど、実は、世の中のあらゆる匂い物質は――洗剤やなんかの香りづけから、超高級な香水まで――すべて、匿名性を保った6つの大企業によって生産されているのだという。その舞台裏に詩的表現力をかわれて出入り自由となり、人の鼻先に猛毒をつきつけては匂いを嗅がせながら独創的な研究をする――わくわくするでしょ?

 引用された香水ガイドの一節の輝くような表現だけでも、読む価値があります。匂いというものにもう少し注意を払ってみよう、と思う。きっと世界が変わる。
 言い方を変えれば、香水に凝ってモテモテ男になるぜ(冗談です)。

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 しかし最近、科学誌「ネイチャー」の嫌がらせぎみな論文審査に四苦八苦したあげくネイチャーを罵倒する、という展開を良く見かけるな……。同じくそのような内容を含むジョアオ・マゲイジョ『光速より速い光』も最近の読了本でありまして、こちらも宇宙論研究者の生活が垣間見られてなかなか良い。VSL(光速度変動理論)がどれほど有望な理論なのか、今のところ私にはサッパリわかりませんけど。

2月8日
 遠くへ行きたい病だ。丘の上から、遙かに見渡したい。陽ざしが燦々と降り注ぎ、屋根瓦がきらきら輝いて、充分にあたたまった布団を叩く力強い音が遠く響いてくる街を。霞むような川岸の向こうの層積雲のふわふわまで飛んでいきたい。もちろん傍らには幼なじみの隣のお姉さんがいて、ほら、いくわよ、とか言ってくれるわけ。

「夢の中で連れてってあげるから、起きてる間は一所懸命生きなさいよ」
「……自分で言ってて恥ずかしくないの、それ?」
「あ、ん、た、ねえ。ひとが――」
「いや、冗談。わかってるよ。一所懸命、ね。肝に銘じる」

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 某所の議論は私には到底ついていけないし、追いかけているわけでもないのだけど、「日本人はキリスト教を理解できない、日本人キリスト教徒は偽物だ」みたいなこと書かれてるのにはなぜだか無性に腹が立った。
 ぼくの友人には、自分の意志で受洗して、教会員として生きている人もいる。少なくとも、彼らが自分の意志で世界の見方を選び、その上で生きているという、その姿すらも否定するようなことは受け入れがたい。何かを信じられる人の健康さを、強さを、なめちゃいけない。

 感情論だけで、何の反論にもなっていない……。

「健康的な信仰」も確かにあるような気がする今日この頃なので、信仰することの価値を無だと断じるような考えは、何にしろ良くないと思うのです。

2月9日
 もろもろの発表会やら試験やら。ベートーヴェンのばよりんソナタはそこそこ良い演奏ができたのではないかなあ。

 打ち上げは海鮮系の飲み屋で。この授業の打ち上げで後期が終わるのも2年目。毎年の恒例になっていくのだろうか。

 年中行事というのは、人間がうまいこと少しずつ区切りをつけながら前に進んでいくためのエンジンのようなものなんだと思う。年輪のように、思い出を重ねつつ、次の思い出を得るために。

2月10日
 あのヘリコプターは秋葉火災のせいだったのか。まさに「炎上」という感じで燃えてますね。

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 脊髄反射してみる。ふた昔も前にその名前つけた人の存在を知っておるのですが……

 ためしに「女の子の名前」辞書計画で検索してみると8種類も漢字の違うものが出てくるので、案外あるものと思われます。
 しかしここ、現実の名前だけじゃなくキャラ名とかも網羅してしまっているのは良いのやら悪いのやら。優美清春香菜とか。

 それはそれとしても、眺めてるだけで結構楽しいです。あり得ないような名前があるわあるわ。

 「ぱるさ」ってまさか「パルサー」なのか? とか。

 「カマド」は昔の人にはありがちだと思うけど、「カマドメガ」と「カマドギア」ってその妙なカッコヨサは何ですか!? とか。

 「うんち」 とか(もはやコメントしようがない)。

2月11日
 昨日買ってきたフランクとフォーレを弾いてみる。うう、たまにはフランス物も摂取しないといかんのだな。美、と言う物に対する感覚。

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 ライトノベルの傾向として、必要最小限の物事しか描かれていない、というのがあるように思える。普段の読書で、ぼくは「これはきっとこんな伏線」とかそんなことはさっぱり考えずに読む。いや、なるべくそういうことから目を背けながら素直に素直に、読む。あとで驚けるような読み方こそ、一番の楽しみ方だと思うし。
 その点「必要最小限系」のラノベの場合、不自然にも筋に関係ない描写があると、考えたくないのに「これは伏線だよ」と悪魔が頭の中で囁いてくれてしまう。敢えて見ないようにしてるのに、それだけで仕掛けがある程度読めてしまう。これ嫌だなあ、どうも。

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 先日腹筋30回やったら筋肉痛になって、さっぱり回復しなくなりました。人間として終わってます。これから毎日、なるべく腹筋だけはやろうと思います。

2月12日
 オケの練習につき合った。練習場所の近所で見かけたある店、ショーウィンドウの内側に白く塗ったベニヤ板が立て掛けてあって、それには赤いペンキで「SALE! 本日 all 50% off」と書かれていた。年季の入ったベニヤ板だった。絶対、間違いなく、あれはずっとあの場所に何年も置きっぱなしにされているものだ。

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 テリー・ビッスン『ふたりジャネット』読了。ダン・シモンズ、シオドア・スタージョンに続いて、奇想コレクション3冊目。このシリーズは素晴らしいですね。
 おかしなアイディアを目にした瞬間、とてつもなく馬鹿馬鹿しい、というよりはバカにされたような気分になる。だけど、そろそろ読み終わるという頃にはなんだかごく普通のちょっといい話を読んでいるような気になっている。で、ちゃんと読み終わった後でもう一度考えてみると、やっぱりものすごくヘンなものを読んでいたことを確認するハメになるのだ。
 そして、「でも、まあ、ヘンだけど、それでいっか」というような、人生の終盤における受容の気分のような、不思議な感覚をおぼえるのだ。懐かしかったり、だけど意味不明だったり、老人になってから思い出す子どもの頃に描いた未来の夢みたいな(ほんとかよ)。

 でも、人生なんてどっか馬鹿馬鹿しくて、それでもかけがえのないものだったり、ときにはしんみりしたりするものではないですか。バカ話に人生を詰め込むというスタンスは、実にカッコイイと思います。

 月につながった時空の穴やら吸い出される時間やらの大事件を、なんだかものすごい適当な数式をさらさらっと書いて解決してしまう「万能中国人ウー」の3作、最高。

2月14日
「え? 今日? 今日は煮干しの日だよね」などと、もの悲しいセリフを一所懸命な笑顔で吐き出す人間がたぶん世の中には1%くらいはいて、ぼくはその1%に入ってみてもいいな。

 だけどね。今日はなんだか、本屋で「宇宙人の手によって、かわいくて変人の先輩と脳を取り替えられてしまう話」の続きを立ち読みする気になれなかったんだ。自分の人生を疑問に思ってしまいそうな予感がしてね。なんでだろうね。

・・・
SFが読みたい! 2004年版

 第六大陸が2位ー。1位とは差つけられてるけど、まあ喜ばしい。
 海外は、1〜4位まで全部短編集ってのが海外長編の翻訳の少なさを如実に示しております。4作とも大満足の本だったのは確かなんだけど。

 座談会の秋山瑞人×冲方丁×小川一水というのは、すごいメンバーですね。小川氏の、「負けたくない作家が秋山瑞人」ということばの真意がわかって読んでて熱くなった。どこまでも応援します。恐るべき才能の持ち主とはいえ、血も涙もない鬼作家なんかに負けちゃいかんです。

 その他、あれこれ。

・SF作家分布マップ、これは、……微妙
・日本SF新人賞というのはなんでここまで冷遇されているのか
・Jコレの刊行予定を見てて気になったのだけど、野尻氏のはちゃんとゲフンゴフン

2月15日
 プロコフィエフはやっぱり天才。

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文学とか哲学とかが現実社会に影響なんてそうそう与えるわけないじゃないですか。世を動かすのはいつだって技術の革新及び新たな科学的発見ですよ。
V日記より)
 確かに至極真っ当な意見なのだけど、それもまた無邪気すぎるという気がしなくもないなぁ。

 行動は文化で規定されていて、文化は細かい物語が積み上がった物だ、と考えてみたならば、我々の行動はそもそも何らかの物語を模倣する傾向にある、とも言えるのではないか。

 たとえば極端な話、文学あるいはそれに類する西洋的な文化が「真実の愛」とやら発明したからこそ、今の世の中には「真実の愛」への正の走行性を持った人間であふれているのだ、と考えることは不可能なことではない。カート・ヴォネガットは、「この世で人間が生きるのに必要なのはお互いへのちょっとした親切心だけなんだ」みたいなことを言っていた(ような気がする。すっごい不確か)。一夫多妻の文化なんていくらでもあるし、日本でも江戸時代の後期ごろまでは多くの山村で、女性は村の男性の共有物として扱われていたという。
 要するにまあ、一生をかける愛なんて別に不可欠なものじゃない。そんなもの知らずにたくさんの人間がずっとやってきたのだから。

 ここで考えるべきは、科学もまた人間の行動の1ジャンルであることから逃れられない、という事実だ。たとえば化学の基礎を築いたのは錬金術だが、錬金術はそもそも何を目指したものか? それは賢者の石であり、不老不死であり、つまるところそれらは物語化された人間の欲そのものだった。

 科学が万物理論を追求し、科学技術が不老不死と快適を目指すが、それらはやはり文化によって規定された軌跡をたどるしかない。坂村氏も同インタビューの少し先で述べている通り、日本でロボット研究がさかんなのはやっぱりロボットという(物語上の)存在が文化として定着したからに違いない。これはまさに物語が社会に影響を与えた例だと思うし。そもそも、チャペックが「R.U.R」を書かなかったら、リラダンが「未来のイヴ」を書かなかったら、ロボットなんて概念が確立しただろうか。

 何かを名付け、物語として抽出する、文学やら哲学やらの力は、あんまり軽視しない方が良いと思うな。直接的に社会が変わるのは、もちろん技術革新によるものということになるだろうけど、そこに至る過程に、社会自体の持つ文化が大きく関わっている。でもって、社会を構成している人々の心ってのは、「世紀末」とか言われただけでなんか暗くなったりするくらいしょうもないものに過ぎない。

 たとえば、ネットワーク社会における意識の変容、なんてものを真実味溢れる描写でうまいこと書いてベストセラーにしたならば、結構それを真に受けて本気で意識が変容しそうな気がしてくるような人間はたくさんいるに違いないのだ。


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