新聞小説として朝日の朝刊に連載していた『讃歌』が終わった。映像製作会社の社員が主人公で、彼がひとつのドキュメンタリー番組を作ることから物語は始まる。
元天才少女ヴァイオリニストと呼ばれた女性、園子が、留学先での文化摩擦による挫折や自殺未遂を経た末、楽器をヴィオラに持ち替えて再起する、そんなドキュメンタリー。彼女は番組の放送後、「日本の誇る天才ヴィオリスト」ということで大ブレイクするのだが……。
これ、設定を見れば誰でもあのフジ子・ヘミングを思い出すだろう。実際、テーマは明らかに実際のフジ子・ヘミング現象から着想されたものに見える。
あの「奇跡のカンパネラ」などといううそ寒い言葉や、「武道館公演」とかいうありえない展開に呆れていた人間からすれば、篠田氏がどのような場所に話を着地させるのか非常に気になっていた。
で、ここからネタバレなわけですが。
ドキュメンタリーという作られた物語、そして演奏そのものでなく物語によって人々に受け入れられる演奏家……そういった現実が明らかになり、その先にあるラスト。それでも、技術を伴わない演奏でも、物語を抜きにして何かを伝えることは可能なのか。もし可能だとして、それは意味があることなのか。ここにどう答えるか、ということがポイントだったわけだ。
ぼくの意見としては、クラシックについてはそれはありえない。曲をを理解し、それに共感し、その共感を伝える。これはどの過程にも「技術」が要求される。演奏技術とは、何も指が回るとか、弓が飛ばせるとか、そういう物理的なことばかりではない。
「演歌のようなアルペジオーネ・ソナタ」とか「技術がないなら、心で弾くしかない」というような記述が出てくるのだが、これらの言葉にはかなり違和感を覚えた。「心で弾く」にも技術はいるのだ。むしろ、技術がないのに心で弾く境地に達せるわけがない。
とまあ、特定の立場からの偏った見方なので、小説家として公平にその答えを目指した篠田氏にはもちろんその見地というものがあるのだけど。
ただ、作中で本当に実力のある演奏家とされる人々の演奏を聴いても、主人公は園子の演奏の万分の一も感動しないのであるが、それはきっと、実力があるとされてるだけで本当は実力がない演奏家だったのに違いない! 本当の実力というのは、すべてのまがい物の輝きを失せさせるだけの光を、満遍なく放射するものであるはずだ。と、信じてないと、「実力」を目指して研鑽することがあまりに虚しいわけなんですが。
そういうシーン、欲しかったなあ。
「ああ、これがホンモノなんだ! なんて凄いんだ!」と主人公が滂沱するの。
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