■ 03年5月前半雑記 | Date: 2003-05-01 (Thu) |
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雑記
5月1日
某ピアニストさんの雑誌インタビュー現場になぜか同席して参りました。いろいろな話がきけてとても楽しかった。まあ、詳しい内容は書けませんけど。さあ、未来へとつなげよう。
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サッカーオリンピック代表の試合をテレビ観戦。途中交替した選手に前田という方がいますが、アナウンサーが「まえだ、まえだ」と言うと俺の頭の中でそれが「麻枝、麻枝」と変換される。自分でも非常にイヤな感じです。そんなこんなで今月の電撃姫の開発日誌を読んでないことに気づいた……。
5月2日
願いがどれだけの強さだったかなどというのは、所詮ひとにはわからないことだ。そんなことはその願いが叶うかどうかにあまり関係ないのだろう。
だからまあ、なかば抽選のような選抜を経て選ばれた中に自分の名前がなかったというのはまったく仕方のないことで、「別にそんなにやりたいわけでもないし、選ばれなくてもいいさ」と言っていた彼が選ばれているのもまったく仕方のないことではあるのだ。
だが、今回のことは実際あきらめのつく程度のことだったが、いつもいつもそうだとは限らない。命と引き替えにでも叶えたい願いも、世界には届かないのだとすれば、裏切られた祈りはいったいどこへ捨てれば良いのだろう。
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ダイオキシン騒動は妄想と打算の産物だった、とする『ダイオキシン――神話の終焉』を読む。あちこち少々書き方に問題はある気がするが、概ね納得のいく内容だ。
特に、小型焼却炉撤廃に向けての大きな追い風となった「所沢の新生児死亡率が有意に高い」という主張がいかに酷いねつ造であったかを見ると唖然とする。考えてみれば当然である。現地の年間出生数が約4000、うち新生児で死亡する数は10程度。比較対象として選んだ村の中には、年間出生数じたいが20に満たない場所まであったという(当然、新生児死亡率はゼロ)。こんな統計が使えるわけがない。
この本の主張によれば、ダイオキシン法成立は焼却炉業者を中心に何年もかけて計画された物語だったということになる。
私は中学生のときに社会科の壁新聞で「大大新聞(だいおおきしんぶん)」というのを作った。当時はまだ世間でそれほど騒いではいなかったが、「史上最強の毒物」という文句に踊らされた私はスッカリその気になって危険を訴えた。冗談じゃない。私の純粋な思いは、焼却炉業界に汚されてしまった。
ところで、この本に対してこのような動きもあるようなのだが、なんだか薄ら寒いものを感じる。もしもこの本が事実無根の主張をしているようならば、根拠を示して反論するべきなのである。
5月3日
ライブイベントに行き、サイリュームを振る、というようなことが今後の人生であり得るのかどうか考えてみた。もうだめかもしれない。私の熱意はさっぱり消えてしまった。世間的には立ち直ったとすら言えるのかもしれないが、それは確かに喪失なのだ。もう、変わってしまって戻れない過去として懐かしむしかないのだ。
たとえば、ある声優の熱烈なファンを長年やっていた後輩も、最近の日記を見る限りではついに変心の時を迎えてしまったらしい。時の流れは緩慢として、しかしあまりに力強い。
だが、逆もあるのだろう。中学時代を思い浮かべれば、アニメイベントでサイリュームを振ることがあるなど想像もつかなかった同級生が、そうして至福のひとときを過ごしていたりもする。それは、世間的には途方もない堕落とすら言えるのかもしれないが、確かに獲得なのだ。
忘れないうちに、書いておこうと思う。そろそろ、私はまじめなピアノ馬鹿になってしまうかもしれないから。
大事だと思っていたものがくだらなくなっていくのは、悲しいことだ。それがいかに正しい判断に見えたとしても。そして、くだらなかったはずのものが大切になっていくのは、幸せだ。
私が獲得したものの大きさに対して、喪失したものはあまりに大きい。
5月4日
大学の悪い友人にそそのかされて、マジックオンラインをダウンロード、無料トライアルをやっておりました(ご存じない方はこちらをご参照ください)。なんとも懐かしい。しかし、無料トライアルだけあって構築済みデッキは単色で面白くもなんともないし、相手も素人さんばっかりって感じ。除去目的でアンタップ状態の Prodigal Sorcerer に Confiscation うったらみすみす差し出してくれたときはげんなりしました。
高校時代は結構はまってる友人も多かったのだが。今もみんな現役でやってるのだろうか。オンラインでも遊んでたりするのだろうか。
その大学の友人も、昔に比べるとつまらなくなったようなことを言っていた。とんでもないコンボを考える楽しみなんてのは、ほとんど消え失せてしまったんだろうな、などと思う。それでも金とヒマがあったら復帰してみてもいいな……。
5月6日
ええと、昨日は突き指してました。はい。大したことはなかったのでひと安心。どうもこの季節は心があくがるような茫洋とした精神状態になることが多くて困る。
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今日はですね、オルガンの演奏会に行ってまいりました。以前Aちゃんの名で紹介した彼女など(と書いて覚えている方がおられるのやら)。なぜ「Aちゃん」としたのか思い出せないんですけど。ぜんぜんイニシャルとも関係ないし。
ともかく、彼女の弾いたM.デュプレの「受難交響曲 Op.23」が感動的。3楽章「磔刑」の、ゴルゴダの丘を登ってゆく足取りの表現(だと思う)の悲痛な表現には、肌が粟立ちました。そして終楽章「復活」の、脈動し沸き上がる神の力と、その上で高らかに歌われる賛歌で、魂が打ち震える。そもそも受難の物語というのは、私のような不信心な者にも、訴えてくるものがありますけどね。
しかしまあ、彼女の演奏はいつ聴いても素晴らしい。もう私は完璧に彼女のファンです。
5月7日
立夏も過ぎてずいぶん長くなった昼もようやく終わりをつげて、部屋には地球の影が忍び込んでくる。旅立ちを控えた日に吹くような、どこか遠くへ向かう風が、狭くあけたフランス窓からふと迷い込んで、机の上に積み上げた学校のプリントをかさかさと鳴らしていった。
こんな季節は、なぜかぼくにとって郷愁を誘う時期なのだ。秋よりも、ずっと。
たとえば、観鈴はこう言った。
「秋の空も好き。どこかに帰れそうな気がするから」
秋とは、どこかに帰れる懐かしさ。初夏は、何かと別れて旅立つ一抹の寂しさだ。
と、そんな白倉由美のリーディングストーリィみたいにセンチメンタルな比喩で、ぼくはこの季節を受け止める。
そう、毎年この時期の夜、網戸からの風を感じながら、白倉由美のリーディングストーリィをやっていた「S-neryのジョカ・ラジ」というラジオ番組を思い出すのだ。深夜ラジオを聴き始めたばかりというのもあっただろうが、一番印象に残っているアニラジのひとつがそれだ。まだぺーぺーだった桑島法子も、S-neryのメンバーとして初々しい仕事をしていたものだ。
検索してみたら、「夢から、醒めない」「東京星に、いこう」のテキストがこちらのサイトに全文掲載されているのを見つけた。ぼくにとってはかなりの衝撃だった。けれど、テキストとして読み進める気にはなれない。
ちゃんとCDを買っておけば良かったと思う。新米声優のへたで甘えた、でもどこか耽美なしゃべり、物憂い音楽が織りなすどこか退廃的で美しい雰囲気は、独特の魅力が確かにあった。
ちなみに、「冬の教室」という短編集のCDアルバムは持っていたりするのだった。
5月8日
昨日の少々あたまのおかしな文章には、オチがつくはずだったのだが、書いている間にスッカリ忘れていた。そのオチというのは、まあ私の頭が本当におかしいことを示唆するものであって、その自覚を示すことにより免罪符となるようなものであるはずだった。が、書いている内にそれも忘れてしまうということは、私は昨日の文章を自分で考えていた以上に思い入れたっぷりに綴っていたということで、それはこまるなぁ。
どんなオチだったかって、なんとなく立ち読みをしている週刊少年マガジンに連載中の「スクールランブル」というマンガが前回あるいは前々回あたりから妙におもしろいような気がしてしまっているということなのでありました。
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今日は指に湿布をしたまま実技レッスンを受けに行ったのに、先生はひとこともそれに触れず。ったく、少しは心配して声かけてくれたりしないんですかね……(と冗談まじりで思った)。
5月9日
ベートーヴェンのチェロソナタ4番をやっています。なんて素晴らしい曲なんだ……。
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パトリック・オリアリー『不在の鳥は霧の彼方へ飛ぶ』読了。すでに死んでいることを知らない兄弟の、死後の生の物語。死後のバーチャルな生を体験する中で、彼らは生きる意味を見つめ直すことになる。
冒頭、小麦畑に並んで寝ころんで空を見上げているふたり。身を起こすと、いつのまにかひと月が経過し、夏は終わっていた。その記憶のない一ヶ月にこそ、彼らが死してなお生きねばならなくなった秘密があったのだ……。
ディックの後継者と言われることもあるようだが、私は彼の物語にそんな印象を抱かない。なにしろ、世界は理知的に存在していて、わからないことは「生きる」という行為にこそ付随しているという描き方がされた小説だからだ。
あちこちの情景描写などには、詩人でもあるという作者の感性が光っており、感銘を受ける。が、全体としては物足りなかった。もしかすると、私が兄弟を持っていないからかもしれない。これはなにしろ兄弟の絆の物語であるからだ。
しかし、同じテーマなら、「ONE〜輝く季節へ」のほうがシンプルで鋭利だと思う(冗談ですが)。まあ、生きる意味なんてものを真面目に考えようとすれば解答はこういう形にしかなりようがないわけで。
けれど、まだ私はこの物語を一度読んだだけだ。文中のことばを借りれば、きっとこの物語は「人生と同じように、一度目はわけがわからない」のだろうから、もう一度読みかえせば印象が変わるのかもしれない。そのようだったら後でまたレビューは書き直そう。
あとひとつ、この邦訳タイトルは、物語のひとつの仕掛けをぶちこわしにしていると思う。まあ実際仕掛けと言うほどの厳密なものでもないし、前作(時間旅行者は緑の海に漂う)に合わせたというのもわかるが、それにしても素直に原タイトルを和訳すべきだった。
5月10日
ものすごく通じる人が少なそうなネタをふたつ。
今日、夕食後にゴンチチさんのラジオ番組「世界の快適音楽セレクション」を聴いていたら、「リサイクルショップ亀松」のコーナーのタイトルロゴが朝崎郁恵さんバージョンに変わっていた。
図書館でふと白倉由美氏の本を手にとって、気づいた。『ANGEL TYPE』のサブヒロインの川原砂緒、あれって『セーラー服で一晩中』のヒロインと同姓同名。というか、オマージュなんでしょうね、たぶん。今更ですが。
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週末のビデオ鑑賞。
Wolf's Rain……なんかまあ、あれじゃあんまりにRPGのシナリオそのまんまなんじゃないでしょうか。もとがそういう企画だから仕方ないのかもしれないけど、にしても安易な展開だなぁ。
宇宙のステルヴィア……ちょっと中だるみ状態か。はじめの頃の脚本にあった機微みたいなのがそぎ落とされてしまって、いささか淡泊。堺さん脚本か、うーん。それでもま、広橋涼さんの役(風祭りんな)がようやく登場で、灰羽連盟のラッカの声に落ちた私としては嬉しい。こんな声もできるんですねー。
5月11日
大相撲中継で、武双山の後ろに「俺が主役だ」くらいの勢いで早川書房の社長が映っていた、そんな日。
大森望氏の日記にあるのだが、堺三保氏は糖尿病で入院中だったらしい。ぜんぜん、知らなかった。ということは、きっとステルヴィアの脚本も、宅配ピザの箱に埋もれながら死にそうな思いをして書いていたのに違いない。細部に生気がないように感じられたのも致し方ない気もする。ともかく、早く回復されることをお祈りします。
健康には、まっとうな食生活が大切です、と、これは自分の周りの人にも向けて言っておきたい。
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マナーモードにしてある携帯がぶーんぶーん、と音を立てる。メール着信の通知だ。こんな人間にもたまにはメールをくれる人なんかがいるわけで、そういうのが結構うれしかったりする。
というわけで、実技の練習を中断して折り畳まれた電話をぱかりとあけた。
「未承諾広告 http・・・ 淫乱なゆかの写メ見てね」
5月12日
とても、どうでもいい部分への反応なのだが、井の頭公園のボートに乗ったカップルは別れる、という話を知らない人が多いのだろうか? 有名な話なのだが……。そういう話が流布している以上、私はあえてあそこで彼女とボートに乗りたいとは思わない。もちろん、彼女がいたと仮定して、の話だが。ジンクスというやつは明らかに真実ではありえないにもかかわらず、人の行動にそうして影響を与えるのだ。それも物語の持つ力なのだろう。物語は、人の心を取り込むことで自らを真実へと昇華させようとする志向性がある。
まあ、ぼくはそのジンクスは結構すきなんです。何しろ、カップルを見ると弁天様が嫉妬して「あのカップルに、考え得る限り最も悲惨で、苦しく、かつ逃れられない破局が訪れますように」と唱えるもんだから別れが訪れるのだ、という説明がなされている。弁天様、なかなかに可愛いじゃないですか。
そういうわけで、こちらが呪詛のことばを吐くまでもなく、奴らは悲しい結末を迎えることになるわけですよ。
ああ、だからみんな知らなくていいよ。カップルは井の頭公園でボートに乗ってせいぜい楽しんでくれ。はっはっは。
5月13日
眼鏡を新調しました。近視だけでも度数が-12.5というとてつもないレンズ。これで、ようやく私の視力は0.9に達したのです。
2.0の視力で見た世界など、生まれてこの方味わったことがないが、それはきっとセンス・オブ・ワンダーに満ちた光景なのだろう。たとえば、反対の歩道の下校途中の小学生の女の子が、歩きながらも夢中で読んでいるあの本の文字すらも読めたりするのかもしれない。
……だからどうというわけでもないけれど。
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ニュータイプの「ぽっかりした。」で、菅野よう子氏が「全力で生きている人の輝き」みたいなことを語っていた。生きることはだんだん死ぬことであるけれど、だからこそ命を削るくらいの生をまっとうしていこう、というような雰囲気だったと思う。「わたしの周りにはそういう、堂々とした人生を歩んでいる人が多い。悔しかったらそういう友達をつくってみろ」などとも。
ぼくがこのあいだ大学の先輩とメッセで話していたとき、彼女は「わたしは命燃やして生きてるからね☆」というようなことを臆面もなく言った。臆面もなく、というと悪いイメージがつきまとうが、彼女が言う限りは、そんなことばもまったく自然で、嘘いつわりない科白だと感じられた。そんなことを口にする資格が、彼女にはあるのだ。だからたぶん、ぼくは菅野氏のことばに悔しがる必要はまったくなくて、
――ただ問題は、ぼく本人がどうなのか、ということなのだなぁ。
5月14日
サントリーホールで新日フィルのワーグナーを聴いてきました。序曲や場面転換の曲など、オケ曲のみを集めたプログラム。結局、はじめに演奏されたタンホイザー序曲が一番しっくり来てました。メインのパルジファルは、かなり素敵なカット編集(笑)がなされていたらしいのですが、なにぶん詳しくないものでそれはよく分からなかった。
総合芸術についてはいろいろと思うことがあるのです――というのも例によって特殊な形式のアドヴェンチャーゲームと絡めた話。
たとえば麻枝准氏が「青空」の間奏に「夏影」の出だしの伴奏形を一瞬鳴らすという細工をしていることに気づいた人間がどれだけいるのかは知りませんが、こういう工夫とワーグナーの確立したライトモチーフ技法のこねくり回しというのは実はそんなに遠い場所にはないように思うのですよ。というか、特定のキャラクターが登場するときに必ず決まった曲をかける、というのはまさにライトモチーフの技法の基本そのものなんですね。
そして、クライマックスで主題歌のインストバージョンが流れて感動する、なんてのも、ワーグナーのやってることと根っこは同じ。
もしかしたら、ワーグナーがいたからこそ、ああいった形式が整えられることになったのかもしれない、などと考えると面白いじゃあありませんか。
5月15日
眼鏡をかけたまじめそうな女性が、ぱりっとしたスーツ姿で駅のホームに立っており、電車を待ちながら彼女が何をしているかと言えば、漫画雑誌を読んでいるのだった。
まあいまどき漫画雑誌を読む女性がいたからどうということもないのだが、彼女が読んでいるのがヤングジャンプであって、今まさに「エルフェンリート」を熟読中となるとだいぶん話は違う。
だから俺は「あのぅ、熱心に読んでらっしゃいますけど、そのマンガ、あなたはどういう風な楽しみ方をしてらっしゃるのですか?」と訊いてみた。もちろん、心の中で。彼女は念話は得意でないらしく、答えは返ってこなかった。
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学食では、どうやら1年とおぼしき男性2名が恋愛談義に話を咲かせている。
「なんつーかさ、好きな人を作りたいってのがあってキョドっちゃってるんだと思うんだよね、おれって。恋がしたいっつーか。それが相手に見えちゃうと困るよねー」
キモイ。自らも充分にキモイことを知っている俺が言うのも何だが、こいつらはキモイ。
「でもさー、自分の欠点も含めて好きになってくれる人が理想だよね」
やめてくれ。欠点を自覚しているなら直す努力くらいしろ。
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日本の未来は、暗いと思う。
感想、憤激、おまえの正体は見破った等、もしよろしければこちらまで