■ 03年7月後半雑記 | Date: 2003-07-15 (Tue) |
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雑記
7月15日
え? まだ後半じゃないって? ……長文書きすぎて容量オーバーなんですよ、前半の雑記が。あーあ、ただでさえ大の月なのに、後半は量を抑えなくては。
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今日はV林田さんのおうちへ遊びに行きました。渡す物があったので行ったのですが、その用事が済むと特に話もせず、ザンボット3の鑑賞会だけやって帰ってきました。どういう友人関係なんでしょうね、ぼくたちは。
しかし、ザンボット3はすごかった。ラスト近くの5話ぶんだけしか見てないのに、それでも疲労困憊しました。気が晴れない。辛い。最後の戦闘なんか、本当に悲壮感が漂ってます。キャラがぼこぼこ死ぬんですが、死ぬのも納得できるような悲壮感。それをあれだけ醸し出すのは大したものです。最後に主人公に対して敵が行う問いかけも陰鬱そのもの。それだけに、ラストシーンのカタルシスは圧倒的。不覚にも涙出ましたね。V氏はこいつを23話ぶっつづけの徹夜鑑賞を実行されたそうで、尊敬してしまいます。
しかしこれほど力のある作品、今後出てくることはないんだろうな。いろいろ考えさせられました。
「この世には、探偵小説でなければ語ることのできない物事だってあるんだぜよ」とかなんとか、確か山田正紀氏が『ミステリ・オペラ』の中で作中人物に語らせたことばですが、それなら主要キャラがみんな特攻して死ぬようなロボットアニメでしか語れないような物事も、きっとあるに違いないと思ったり。
物語と現実というものについても考えを向ける結果になった。たとえば、実際ザンボット3のラストシーンで私は感動しましたけど、主人公の知人は一人残らず死んでしまっていたとか、あるいは最後に辿り着いた場所が本当に無人の浜辺であったとか、そういうラストシーンだって作ろうとおもえば作れるのですね。というかむしろそっちの方が作品的には自然な気もする。あるいは、もし現実ならそういう終わり方も大いにあり得る。現実は物語ではないのだから。それでも、我々は何かを「意味がある」と言い切ることができるのか。言い切りたいと切に願うんですけどね……。
7月16日
谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』読了。ようやく読みました。
「おいもりげ、涼宮ハルヒ最後まで行ったか?」
「あぁ、まだハルヒシナリオしかクリアしてないんだけど……。おれみくるさん狙いだったのになあ、どこで間違ったんだか……」
そんなかんじ。人間原理とか持ち出したりとか、いろいろネタは入ってるんですが……メタエロゲ小説じゃあこれが限界か。
恋愛物として読めば、なかなか良い作品のような気もします。これがゲームであったなら、割と素直に良くできたシナリオと思っただろうな。
どこかで言われていたような滝本臭は感じず。テーマ性そのものがまったく違うように思うのだけど。
7月17日
寝室に向かおうとしたら、階段のあちらこちらに茶色の液体がこぼれている。猫が下痢をしたのだった。父親の部屋の絨毯にも、染みがいくつもできていた。
それを見た瞬間、まず浮かんだ感情が、怒りだった。どうして汚すのか。人が寝ようと思っている時間に余計な仕事を増やすのか。そんなことを漠然と考えていた。
愕然とした。かわいがっている猫が、おなかを下しているのだ。まずは心配して、様子を見に行って、だいじょうぶか、と声をかけてやる。それがあるべき人間の姿ではないのか。なのに俺はなぜ怒りを感じたりするのだろう。
ああ、でも人間ってそんなもんなんだろうな。いくら優しさや思いやりを目指したって、どうにもならないんだ。でも、それでも――。
猫が寝ているところにいって、大丈夫か、と言いながらなでてやると、彼女は平気な顔で喉をごろごろ鳴らした。思わず苦笑いした。――ったく。たのむぜ、早く良くなってくれよ。
布団の上に漏らされたりしたら、また俺は怒ってしまうだろうから。
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新曲キター! 買うしか!
しかし、結局これをレコーディングできたってことは……クソクラナドの方もそろそろ完成に向かっていると解釈して良いのかな。まあ、3つも新曲ありゃ年末までは体内麻枝分は保ちますが。
7月18日
ねこ元気。
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今日は門下の発表会で弾いてきました。ずたぼろ。こんなことで一週間後に迫った本番は大丈夫なのか。
しかし、大丈夫なのか、などと言っている場合ではないのだ。人間、やらねばならないときというのはあるものだ。四の五の言わずに、やらねばならない。「緊張してて力が出し切れなかった」なんてのは言い訳にもならない。
今回は、たくさんの人が応援に来てくれる。ぜんぶ力に変えて、言い訳無用の強さを、どうかこの手に。
7月19日
矯正歯科で大量被曝。
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グレッグ・イーガンの日本オリジナル短編集第2弾、『しあわせの理由』読了。やっぱりイーガンは良いなあ。今回は、突飛な理論を追求した数学的スペキュレイティヴ・フィクションな側面はだいぶ弱まっていますが。
いずれにしろ、イーガンほどにこの世界の仕組みと、人が生きる意味について透徹した視点を持って小説を書いている作家はそういないでしょう。イーガンを読まずして哲学を語るな、と言いたいくらいに。ハードSFという印象だけが強いかもしれませんが、実は人が古くから抱いてきた疑問や信念に対して、非常に真摯な考察をしているのが彼なのですね。たとえば、「ボーダー・ガード」の中にある科白、死は無意味で、不意に起こる、不当な、言葉にできないほどいやなもの(中略)――だとしたら、その逆を信じることが、高邁な思想の証明になるというわけ。作家たちは何世紀ものあいだ、不死人が死にあこがれ、殺してくれと懇願するという、ひとりよがりで禁欲的な寓話を書いて、不死でない自分をなぐさめてきた。突き刺さりますな。滅びに向かうからこそ人生は美しい、などとうそぶく作品に感動するような人間にとっては。
そしてなんといっても、表題作「しあわせの理由」、何度読んでも最高の小説。私たちは幸せを目指して生きているけれど、その幸せなんてのは脳内のロイエンケファリンの分泌だけで達成できる程度のもの。そして、もしあなたが目盛り付きつまみをちょいとひねるだけで、ある特定の事物に対して感じる幸福感を調節できるとしたら? 恣意的に調節できる程度の「幸せ」などという馬鹿げた代物が、どうやって生きる目標になるほど確かな真実でありうるのだろうか?
理系SF読みではなくて、何かこの世界を真剣に見つめた思索をしてみたい文系の人にこそ、イーガンを薦めたい。というのは本書の解説にも書いてあることですけどね。
7月20日
網戸のすぐ外で、クモが芸術的な円網を張るのを観察する。たぶんカラフトオニグモというやつなのではないかな。進化というやつがこういう行動を作り上げたのなら、きっと進化さんは天才なのに違いない。
夜は、花火大会を目撃。あくまで目撃しただけです。
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何度思い出しても笑える。初出がどこか知らないんですが。
7月21日
SF大会帰りの人の話によると、菅浩江さんのJコレクション書き下ろしは、今年中には出ないんではないか、というような状況であるらしい。心待ちにしていただけに残念だが、いろいろときつい事情があるらしいので仕方がないです。じっくりと、良い物を完成させてくださいませ!
そういえば、なぜかV林田さんの名前が会話に出ているのを小耳に挟んだ、という話も聞いたのだが、刺客でも派遣していたんですか、Vさん?
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昨日書いたクモ、どうやらギンメッキゴミグモというやつのようだ。網にとまるとき、頭を上にした姿勢をとる珍しい種類であるらしい。
カラフトオニグモも(名前の割には)日本全土に生息しているクモではあるのですよ。
7月22日
たとえば、こういう。
「この思いさえあれば、ぼくは――なんでもできる!」
そんな、ラノベの――それもとびきりむずがゆいラノベの――ヒロインみたいな言葉を頭の中でこねくりまわしてみたりすることがある。というか今、な。
どうでしょう、秋口さん。ぼくは相当にキモいはずですよ。こんなぼくは、何か成し遂げたりできるに違いありませんよね。ねえ、秋口さん……。
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昨日からNHK総合ではじまったアッテンボローさんの新シリーズ(23時からの「ほ乳類大自然の物語」。月−金で二週連続10回放送)また素晴らしい映像を撮ってくれてます。BBCの番組制作能力にはいつも脱帽させられる。しかし、アッテンボロー、やっぱり地球狭しとかけずり回ってます。……70歳とは思えない。
7月23日
「明けない梅雨はないんだよ」
優しく、彼はそう言ってくれた。でも、あたしにはそんなこと軽々しく信じられなかった。
「でも、でもっ! もう……もう大暑なのよ、暦の上ではっ……!」
涙が止まらない。早く夏になって欲しかった。蝉時雨と純白の入道雲の下を行きたかった。丘の上で、額の汗を強い風に晒したかった。扇風機の前で「ワレワレハ、トオイホシカラヤッテキタ」と言いたかった。
沈黙を、雨の音が包む。しばらくして、彼が静かに口を開いた。
「……だけど、夜ねぐるしくないから、こんなのもいいじゃないか」
ハッとして目をあげた。そこにあるのは、何かを諦めたような顔。彼は――彼は梅雨が明けないことをいつの間にか認めてしまっていた。
「そう……」
思わず口をついて出たことば。
「もう、終わりね、あたしたち」
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自分でも意味がわからない。要するに何が言いたいかって、最終回を前にした『Wolf's Rain』の録画を見たんですが、素晴らしかったです、と。え? ヴォーカル曲が、ですよ。やっぱりサントラ揃えようかな。でも『ニコパチ』も買わなきゃいけないし……。
7月24日
突破。応援に来てくれた方々、アリガトウゴザイマシタ。今日はとても疲れましたので、日記のネタも思い浮かびません。アリガトウ、アリガトウ。
7月25日
考えてみりゃ次の舞台まで一週間しかない罠。まあ今度はもちっと気は楽ですけど。
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ちょっとだらだらとした一日を過ごしてみよう。そんなわけで、夕方はふらりと散歩に出て、本屋で立ち読みをしたりする。
ああ、エルフェンリートの連載をなぜかチェックしてしまう自分が不思議。しかし、血も涙もない作者だよなぁ。アフタヌーンは最近付録のせいで立ち読みできない号が増えたなぁ。いやだなぁ。とかそんなことを考えつつ。
ところがいざ帰らんとすると折悪しく雨足が強まりつつあるところで、ままよとそのまま傘を差して歩き出せば、そのうち豪雨と表現しても差し支えないような天候になってきて、なんだか笑いが止まらない。
もういいや、膝から下は濡れるに任せよう、と決めてしまえばあとは気楽で、スニーカーがじゅくじゅくと一歩踏み出すごとに音を立てるのを感じながらうきうきと歩いた。鞄さえ抱えてなければ、傘を畳んで歩いたって良かったのに。
そんな、一日。
7月27日
一昨日はSFマガジンについて触れるのを忘れていた。まあ、特筆すべきことは水玉氏の復帰と友成氏の復帰だけのような気もするのだけど。
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冲方丁『マルドゥック・スクランブル The Third Exhaust−排気』読了。圧巻です。まずはブラックジャック勝負の描写が延々と続くわけですが、このひりつくような緊張感。読みながら、無理にでも微笑みを浮かべておかないと取り込まれてしまいそう。後書きに、ブラックジャックのシーンを書きながら吐いた、とあるのを見て納得してしまった。まさに、その緊張感がこちらまで伝わってくる圧倒的な描写ですね。
そして、なぜカジノでの賭事をこうも執拗に描かなければならなかったか、そこまで考えたときにこそ、この作品全体の「叫び」のようなものが胸に届きます。俺は道具だ、と言い続けてきたウフコックが、最後にする決断は、つまり何を根拠に価値を定められたのか、と。
7月28日
大学関係で飲みに行ったのだが、来ていた後輩の男が実に変であった。
「ぼくはそのときある女性に恋をして、でもこう見えてもぼくはそういう面では奥手だからね、直接言うこともなかなかできない。それで、『ミルテの花』のCDを贈ったんですよ」
ちなみに、ミルテの花というのはシューマンの歌曲集で、愛しのクララに捧げられた熱烈な恋歌だ。……あの、男子高校生としてそういうこと大真面目にやるのはどうなんでしょうか?
酔いが回ってきた彼は、そのうち
「いやあ、コルトーはねぇ、すごいよ。……シゲティはねぇ、すごいよ。……フルトヴェングラーはねぇ、すごいよ。……ヴンダーリヒはねぇ、すごいよ。ああ、でも、彼の『詩人の恋』の録音、ピアノのギーゼンはクソだけど」
まあ、幸せな男ではある。芸術家タイプというのはこういうヤツのことかな、と思った。
7月29日
田中啓文『忘却の船に流れは光』読了。帯には、「もはや駄洒落の余地もない」とあります。悪魔襲来、それを防がんと主(すさのお)に創造された「世界(デパツア)」――5階層にわかれ、聖職者(すさのおいや)を頂点にした7つの位階によるカースト(?)社会。今まさに「世界」はほころびつつあり、その中で若い聖職者ブルーは修学者(がりべん)であるヘーゲルに出会った。 ……まあ、SF読み慣れた人ならタイトルと設定だけでこの「世界」がどういった類のものであるかおおよそ想像をつけていることでしょう。
いずれにしろ、田中ワールド全開。もうぐちゃぐちゃでずるずるで痛い(肉体的に、ね)。そのめくるめくどろどろ感だけでもおなか一杯、という感じですが、最後までちゃんと読めば(いろんな意味で)満足します。「もはや駄洒落の余地もない」ねぇ……。そう言いつつ結局は田中さんだよなぁ。あはは。
7月30日
朝からの雨は午後にはあがったけれど、昨日かすかに耳にしたはずの蝉の声は戻ってこない。居間のテレビで風格あふれる虎の映像を見てから部屋に戻ると、わたしのベッドの上で飼い猫が惰眠をむさぼっていた。
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坂本真綾『ニコパチ』を買ってきた。ついでにジェフスキを聴いておかねばと思い立ってアムランの弾く「不屈の民」変奏曲のCDを。アムランまんせーな人間ではないけど、どういう曲かを知るにはアムランの演奏は最適。しかし、どういう取り合わせなのやら。
『ニコパチ』はやっぱり素晴らしくて、中でも「THE GARDEN OF EVERYTHING 〜電気ロケットに君をつれて〜」は初めて聴いたのだがコンセプトからして度肝を抜かれた。菅野氏だからこそこういう作品をちゃんと聴かせられるのだろうなぁ。
だけど、ぎりぎりまで詰め込んだという割にはまだ時間が残っているではないか。これなら「さいごのマメシバ」も入れられたんじゃないだろうか。それがちょっと残念。
7月31日
毎日新聞に載っていた吉村萬壱氏の文章。SF小説は難しいので読まないが、映画は見る。……呆れますた。あえてそれ以上のコメントは差し控えておきますが、しかし、きっと彼にとって自分が生きていることには疑いようもなく「意味」があるんでしょうなあ。(中略)
人類と全く異なるコードに基づいて行動する圧倒的に強い宇宙生物の存在を形にしたいと考え、何度か小説に書きかけたがうまくいかなかった。理由は簡単で、途中でバカらしくなって書く気が失せてしまうのだ。こんな小説に何の意味がある?
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呆れた、と言えば今日見た『Wolf's Rain』最終話も。結局のところ菅野さんに曲を依頼すること自体おこがましいような作品でしたな。
感想、憤激、おまえの正体は見破った等、もしよろしければこちらまで