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もりげレビュー


  物語のゆくえ Date: 2002-04-10 (Wed) 
 出版業界の低迷が言われて久しい。この間、阿刀田高氏がその問題に触れたコラムを読んだ。いろいろと思うところがあったので、少しここに書いてみようと思う。

 「この先、小説は生き残れますか」
 小説家にとっては気がかりな質問を受けることが多い。

この問題に対する阿刀田氏の認識は、

現在は(小説は)映像的な手段の発達やさまざまなエンターテイメントの台頭により、反撃を受け始めている。

というものだ。少々時代錯誤であると言わざるを得ない。まず、基本的に間違っているのが、小説に打撃を与えているのが他のエンターテインメントである、という考えだろう。現在、出版業界はコミック部門を含めて厳しい状況であると言われており、また映画、ゲームといった映像作品もすでに落ち目と考えて差し支えない。当面の敵は携帯電話など携帯型情報端末である。これこそ、エンターテインメント業界が一丸となって戦うべき、あるいは利用方法を早期に確立すべき相手だ。
 ともかく、小説の未来が心配であるというのは確かなことではある。この問題に対して、氏は

(ほかの表現形態に無い大切な点は)小説が文章を綴り、文章で訴える営みである、ということだ。(略)よい文章で綴って、文の力で訴え、読者を感動させ、想像力をかきたてる。
(略) 「文章で来い!」
 この聖地を犯されることはない。

と述べる。
 本気か?
 メディアの発達が文章表現に与える影響は計り知れないだろう。ハイパーテキストという、文章の新たな地平。サウンドノベル、ヴィジュアルノベルなどと呼ばれる形態。すでに聖地は脅かされている。
 紙に綴った文章が、総合芸術的表現の中に組み込まれた文章より力を持つなどと、私にはそのような単純な結論づけはできない。文章表現の力だけを云々するのであれば、映像や音楽と結びつけられ、表示速度などで演出された文章が、紙に印字されただけの文章とは違った魅力を持っていることは無視できない事実である。
 実際のところ、文章芸術自体がテキストファイルとしてやりとりされるようになるとすれば、それを鑑賞するための媒体は紙ではなく、携帯用情報端末の一種になると思われる。すると、そこには今までになかった表現の可能性が生まれ、文章表現を主体としつつも単純に小説とは呼べないような形の総合芸術作品が生まれてくることだろう。
 小説には氏の言う以外に大きな利点がある。「個人」で創作できるということだ。言語のみに頼った、もっともシンプルな物語表現のあり方だからである。物語を作りたい人間にとって、小説というのはひどく魅力的なものなのだ。そんなわけで、小説を読みたい人間は着実に減っているが、小説を書きたい人間は着実に増えている。だから小説はなくならない。
 ただ、小説に限らず、芸術表現全体が商業ベースでは成り立たなくなってゆくと私は思う。これはある意味で人類への福音となるだろう。孤独なピアニスト、グレン・グールドが夢想した、すべての個人が芸術家である社会。ネットワーク上の電子データという形で、それは現出しつつある。技術の発展により、個人の力で制作可能な作品の領域は大幅に拡大してきた。これからもその傾向は続くと思われる。そして、大規模な芸術表現がより少ない費用で完成させられるようになれば、真に創作意欲から生まれた作品が増えてゆくことは想像に難くない。
 また、多くの共感を得た作品世界は、サイドストーリーだとか、メディアミックスだとか、様々な形で自己増殖を果たすだろう。そうなれば、いま氾濫している、マーケット拡大のためだけのメディアミックスとは全く質の違うものができあがってくるはずである。そうやって増殖する物語、それこそが人類の創作活動におけるひとつの意義ある目標となるのではないだろうか。

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