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もりげレビュー


  04年6月前半雑記 Date: 2004-06-04 (Fri) 

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雑記

6月3日
 すみません、ふつかもさぼってました。生きてます、一応。

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 Colorful Puregirl の高橋龍也×麻枝准の対談を読む。どうにも居心地悪い印象を受ける部分が多いなあ。『リアライズ』の、誰にも理解されなかった仕掛けをネタバラシする高橋氏。『CLANNAD』における幸せを、自らの人生の寂しさへのアンチテーゼとか言い切る麻枝氏。

 だいたいにおいて、傍目には片方はまだまだ先があり、もう片方はオワットルという印象が強すぎて、しかもそれを本人らも自覚してることは明らかで、そんな中この時期に対談ってのはあんまりお互い気持ちよくないんではないかなあ。

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 なんだかいまさら「リア鬼」関係でリンクはられて弱った。我ながら痛い内容です、あのあたりは(痛いってのはこの雑記のどの部分をとっても当てはまるんだけどね!)。

 ちなみに文庫版の『リアル鬼ごっこ』は改稿されちゃっててさっぱりおもしろくないらしい。彼の他作品について、あのあとぜんぜん触れてないのは一応読んでみた上でネタにすらごにょごにょということなので察してください。

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 カッターナイフ事件。……文字だけのコミュニケーションってのは難しいですよ、ある程度の年齢の人間にとってさえ。

6月4日
 あれは、ぼくのことを忘れてるんだろうな。ぼくの存在自体を。今日は会えるから連絡すると言ってただろう? 君は。

 会えないこと自体はどうでもいいのだが、貸した金が返ってこないのは、今のぼくには大分こたえる。

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 帰宅しようとちょうど駅を出て歩き出す時間、影法師が長く伸びているころ。真正面から日差しをあびて視界が金色に染まって何も見えない。

 この金色が金塊だったら金なんか返してもらわなくてもいいぜ、とか考えてるのはどうなんだろうねえ。

6月5日
 朝からふとんの上に猫が反吐をぶちまけてくれたおかげで、大変に有意義な時間をすごすことができた。これはなんだよ、と怒って体罰を加えたのに、のそのそと歩いていって丸くなって眠る姿は憎らしいものである。彼女は自分が反吐をまいた場所にはしばらく寄り付かなくなる。反吐をまくのは、たいていそのときお気に入りの就寝スペースにしている場所なので、つまり彼女は反吐を出し出し寝場所を変える有機機械である。

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 もりげんを抜いてトップになってた。ちょっとうれしい。

6月6日
 午後のサロンコンサートで室内楽を聴く。至福。

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 ミニヨンは、萌え泣き悲劇的少女の原型だと思いますがいかがでしょうか。

 ・12歳
 ・ズボンしか履かない
 ・心臓が弱い
 ・故郷を思ってひきつけを起こす
 ・後には主人公を思ってひきつけを起こす
 ・ってか、死ぬ

 これだけの素質を十分に活かせないゲーテは萌え泣きの技法が足りません。

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 前提を誤った上で人を憐れむってのはどうにも見てくれが悪いと思いますなあ。他人のことなんて思ってるより知らないことが多いものですからね。

6月7日
 ゲーテが萌え泣きを目指したというのは冗談にしても、萌え泣きは何もオタク文化から生まれたものでは決してない。

 山川方夫という夭折した作家がいる。彼が1964年に小説現代に発表した「千鶴」という短編をご存知だろうか? これは、近所の精神薄弱の美少女に「お兄ちゃん」と呼ばれるという作品である。

 1964年である。東京オリンピックのその年に、すでに少女に「お兄ちゃん」と呼ばれてうれしがる男の話が書かれているのである。

 自転車のケツに乗っけてあげたら大喜びされて、でもその子の母親には怒られて、なんてシチュエーションを見ても、萌え泣きを志向していることは明らかだ。ネタバレは控えるが、物語自体も完全に悲劇的少女を美しく書くことに特化している。

 実際何を目的にこの作品を書いたかは別として、山川が「うっひょー、妹じゃない女の子におにいちゃんと呼ばれるなんてこりゃタマンナイっすね!」と思いながらつづっていただろうことは想像に難くない。

 彼が、現代の洗練された萌え泣き技法――「ふいふい」とか「うぐぅ」とか、特殊な口癖を言わせる、「お兄ちゃん」ではなくて「おにいたま」と呼ばせる、など――を見たら、さぞかし悔しがることだろう。俺だってこういうテクを持ってれば、千鶴をもっと可愛く描けたはずなのに、と。

6月8日
 今日は合計で何時間ピアノの独奏を聴いていたのだろう。……3時間半ってところか。疲れた。

 スタインウェイのフルコンサートグランドによる、大ホールでの演奏と、1795年型のフォルテピアノによるサロン風コンサートを聴いたのだが、音楽と自分との関係性が両者でまったく異なってくるのがおもしろい。

 簡単に言うと、前者では音楽は遠い理想から照射されるもので、聴き手は個々人でそれを受け取る。後者では音楽は演奏者と聴衆を含めた場としてすぐそばにある。

 音楽が個人的・ロマン的な表現となるにしたがって、受容もまた個人的であることを要求されるようになる。つまり、ロマン的な作品を演奏者・聴衆を含めた場として展開することはできない、ということだ。それはもしかしたら楽しい音から遠ざかることかもしれないが、しかし表現者は表現することを必要として表現しているのであり、私はそこに与するものでありたい。

6月9日
 青い瞳の先生でした。ドイツ語ききとれねぇ……。

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 数学と音楽と世界のヒミツについて話をしたりした。こういうノリは久方ぶりで、たいへんに良い時間をすごした気がした。

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 あと、妹はいいなあ、という話を(これは別の人と)したりした。こんなんじゃダメだなあ、と思った。

6月10日
 西洋伝統芸能の系統の世界にいると、人が集まってるその前で偉い人の指導を受ける、というような場を経験することは多いわけですよ。

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「あなた、重心が踵の方にかかってるネ」
「は、はいっ」
 その注意を受けて、真澄が再びステップを踏む。その身体には、さっきまでとは比べ物にならない軽やかさが満ちみちていた。まるで花びらに踊る妖精であるかのように。

「たった一言の注意であれほど演技が変わるなんて!」
「すごいよ、やっぱりアリエヒェンデルフ先生はすごいよ!」
 ざわ、ざわ。ざわ。

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 とかいうような状況ってのは、漫画なんかにゃありがちですけど、現実にはそうそうないと思ってませんか? そういうのって本当にあるんですぜ。

 自分が上記の真澄の立場にされて、その公開講座の価値を人々に実感せしめるための好材料になってしまうってのは嬉しくもあり、なんだか悔しくもあり。

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 ああ、和風Wizは完結したのか……。先が長いのでしばらく休んでいたらいつの間にやら。読まねば。

 Wiz#1 "Prooving Ground of the Mad Overlord" はおかしいくらいにやりこみました。上記の日記は #1 をそのままネタにしてるので、地下1階になぜかマーフィーズゴーストが現れるわけを書いてあるところなんか膝を叩いてしまった。

 現代日本に大迷宮が出現する話といえば火浦功『ファイナル・セーラー・クエスト』が思い出されてなりませんが、あれも唐突に素っ裸になる体育教師(職業:忍者)とかWizネタに笑ったものだ(Wizardry では、忍者はすべての装備を外した状態で最強になる特殊職業なのである)。

6月11日
 電車で隣に座った男がラップトップのパソコンで、『痕』(エロゲー)のMADアニメを全画面表示で見てるよう。ヘッドホンからはお歌が漏れて聞こえてるよう。お願いだからやめてよう。

 メガネかけてちょっと小太りでチェックのシャツを着てるよう。オタク図鑑から取ってきたようなオタクだよう。いやだよう。だけど周りには俺も仲間に見られてそうだよう。お願いだからやめてよう。

6月12日
 田中啓文『蹴りたい田中』(早川文庫)読了。日本文学史にひっそりと刻まれた「ハチャハチャSF」の流れを汲む珠玉の作品集。電車に乗りながら読んでましたが、「くっくっくっく」とか肩を震わせ続ける変な人になってましたよ、俺。表紙から帯から、どこをとってもおかしい本。これを読まずになにを読む。

 扉に「田中啓文氏の思い出に」とあるが、その裏に「りさちゃんにも」と書いてある。綿矢氏にもぜひこの本を読破いただいて、新たな世界へと覚醒していただきたいものである。

6月13日
 ゲーテに萌え泣きを見出すのはあんまりだ、という友人がいたのだが、どうやら昔からミニヨンに萌え暮らしている方々はいるのだということがわかった。ぼくは何も間違っちゃいなかったのですね。

 ところで、常にネタバレには気をつけているつもりなのに、ミニヨンについてだけあっさりネタバレを書いてしまったのはまずかった。

 どうして何の引っ掛かりも感じずに重要ネタバレを書いてしまったかというと、どうせ『ヴィルヘルム・マイスター』をこれから読もうと楽しみにしている人などいないさ、と無意識に考えていたから……というわけでは決してない(……と、思う。それだったら山川方夫なんてもっとあっさりネタバレしてるところだ)。

 ミニヨンは作中でいくつか歌を歌う。それらには多くの作曲家が実際に曲をつけ、歌曲として楽譜になっている。「知っていますか、レモンの花咲く国を」なぞ、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、リスト、チャイコフスキー等の著名作曲家が思い思いに曲をつけている。

 さて、ミニヨンの最後の歌、彼女が天使のコスプレをして衣装を着て歌う「このままでいさせて、そうなるまで」なのであるが、これはまさに彼女が死を予感するかのように歌うもので、歌曲の解説は必ずミニヨンの死に触れ、盛大にネタバレしてくれているのだ。

 このミニヨン最後の歌はあまりに無垢で、悲しいまでに美しい。曲をつけた作曲家は「知っていますか〜」などに比べて少なめだが、それは詩に圧倒されて曲をつけることをためらってしまったからではないかとさえ思える。ミニヨン萌えの方々、シューベルトのやつだけでもぜひ聴いてみてやってください。ただ、歌い手が声量で押すオペラ歌手系だったりすると死にたくなりますが。

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 西原理恵子がテレビに出て『世界の中心で、愛を叫ぶ』を汚らわしいものを見るような目で見ていたよ。

6月14日
 車から、大音量で流してるオーディオの重低音が響いてくることはよくあるけど、バイクから同じ仕打ちを受けるとはおもわなんだ。ありゃいったいなんだったんだ? むき出しなだけに威力も大。

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 バカみたいな歌詞で(きみを一生まもるよ! がんばって! みたいな)うきうきするような歌っていうのは、絡み合ったうんこみたいな気持ち悪い妄想も、砂場の中の猫のうんこを探すような不毛な哲学も、ぜんぶ水に流してくれるのだが、それは私の頭がぱっぱらぱーだからだろうか。

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 別に、バイク野郎が流してた歌がそういう歌だったというわけではない。いくらなんでもそんなわけはない。奴らは「悪い奴らはだいたい友達」とかそんなのを流してるもんなのだ。

6月15日
 昨日の文章に不快な表現があったことをお詫びいたします。とかいいつつそのままなんですけど。

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 検索してみたのだが、世間の綿矢りさファンが『蹴りたい田中』に驚くほど注意をはらっていないことがわかって、とても悲しい。掲示板でわざわざ紹介してる人がいるのに、ものの見事にスルーである。みんな人生の9割くらい損してると思う。

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