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もりげレビュー


  ハヤカワ新シリーズ Date: 2002-04-27 (Sat) 
 ハヤカワSFシリーズJコレクションが創刊された。第一回配本は、野尻抱介『太陽の簒奪者』、牧野修『傀儡后』、北野勇作『どーなつ』の3点。ちなみに、『傀儡后』だけが上下2段組の印刷で、ページ数も多い。それでいて定価は200円高いだけなので、量だけ見ればかなりお得である。よって私は傀儡后をお薦めする。……というのは冗談だが。
 さて、野尻、牧野両氏はSFマガジン掲載作だが、『どーなつ』は書き下ろしである。
 折から『昔、火星のあった場所』が国内SFのベスト1、と言っているほどの北野ファンである私は、そんなわけで『どーなつ』をそれはもう急いで読んだのである。
 簡単に言うと、この作品はアメフラシと熊とヒトのお話である。そして、たとえば『昔、火星のあった場所』に対して「この物語は破綻している」と述べたファンタジーノベル大賞の選考委員であれば、「この破綻した代物はもはや物語ではない」などと言うのだろう。
 私には、懐かしかった。すべてが。『どーなつ』は、彼の過去の作品(特に『クラゲの海に浮かぶ舟』)の語り直しである(あるいは、すべてを取り込む形の作品である)とも言えそうで、そんなわけで懐かしいキャラクターや懐かしいモチーフが現れる。ただ、私が言っている「懐かしい」はそのような意味だけではない。
 彼の「記憶」というものに対する関心は、私が記憶に対して取る態度とおそらく共通していて、それ故ここにある「記憶」に対して無性に懐かしさを感じるのだ。まずはそのような懐かしさを大切に思える人間でないと、この『どーなつ』という「壊れてしまった記憶の断片」を読み進めるのは少し辛いのかもしれない。
 読み進めるほどに、世界は混乱し、なにが本当だったかわからなくなってゆく。作られた物語が記憶を飲み込み、そうして書き換えられた記憶が物語を解釈しなおし、すべてが相反しながら混ざり合ってしまう。月並みだが、エッシャーの騙し絵のように常に現実と物語が反転しつづける。いや、反転どころか何通りもの解釈が存在し、それが流転しつづける。口で言うのは簡単だが、実際にこのような読書体験はなかなかできるものではない。
 最終的には背後にある本当の物語が垣間見えるようでいて、やっぱり完全に理解することはできない。この作品は実際「物語」そのものではないのだろう。「物語」にしようとしてかき集めた断片は完成することはなく、どこかが欠けてしまったままだ。それでも、やはりそこには物語はあるのだ。漠然とした、それでもとても大切なものが。
 なんにせよ、この「頭がぐらぐらする」感覚は久しぶりで、とても嬉しいものだった。作中の記憶の混乱度は、「火星」や「クラゲ」よりもパワーアップしているので、一般人にはより薦めにくい作品なのかもしれないが。

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