あるいは、守れなかったと思い込んでいたもの。麻枝准の歌について触れているのなんかを見ると否応なくじっくりと読んでしまう、いろいろあってもいまだファンをやめられない。
麻枝氏の歌詞がしばしば自己矛盾してるのを見て「雰囲気だけで書いてるバカ」とか言ってる人もいたような。実際、雰囲気だけで書けるくらいにいつでも世界のヴィジョンが見えているあたりが天才的だと思うわけなんですが。いずれにせよ、自己矛盾と思われるものは実は矛盾じゃないんだ、という話。
「此/彼/方」という某同人作品に歌を一曲提供していて、その中に「時をゆきすぎた」「ぼくはゆきすぎた」という表現が出てくるのだけど、これは本当に「取り返しのつかなさ」の表現そのものだな。それでも、取り返しのつかなさの中でなお何か夢を見ていて、でもその夢は過去の切れ端で、だけどでも、まだもしかしたら未来の夢としてみることができるんじゃないか。そんな感じなのでした。
だから、「今も覚えている」というのは願望としての未来のことでもあるんじゃないかなあ。つまりなんだ、彼にとってのあるべき未来の姿というのはなんと過去そのものなのだという。『ソララド』収録曲中にある「未来ははるか彼方 思い出話のよう」ってのはまんまですね。
夏影の歌詞にある「今、僕らが走りぬけたよ」なんかを見ても、そもそも彼の詩にある「今」というのはあんまりわかりやすくまっすぐに流れてゆくような構造をしていない。過去のある時点が、「今」という表現で現在と重なって存在しているようなこともしばしば。なぜかそれがしっくり胸にはまる自分がいる。
でも、ぼくはもう痛みやなんかもいろいろと忘れてしまったなあ。人に届けようとしてる思いが今でもホンモノなのかよくわからない。鮮やかな世界に生きていないと、どんどん過去の思い出の鮮やかさまで薄れていく。そんなものだ。そんなんじゃダメなんだけど。
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