ホフマンスタールのデビュー作(?)である、"Gestern"という韻文劇について、ペーター・ションディという文学研究家が述べた講演記録を、ドイツ語の講読で読んでいる。おもしろい。
戯曲の主人公であるアンドレアという男は、自らの感覚だけを信じて生きている。他人などというものは自分を映す鏡に過ぎないので、本質的に存在しない。過去などというものは、現在の自分の感覚から乖離しているので、すべて架空のものだ。彼にとっての真実とは、彼のいま現在の感覚する心地よさに合致するもののことであり、真実がほんとうに真実であるかは関係ない。
で、アンドレアはしかし、妻の浮気という「事実」を突きつけられることで、自分の「真実」概念を破壊されてゆくのであった。そんな内容の劇。
そのようなことを延々と読み解いていくのである。文章は難解で、単語を調べても調べてもなかなか訳せなくて困る。そんなことはどうでもいいのだけど。
実際、ホフマンスタールの意図はションディが解説したとおりなのだろう、と納得できる。完璧な韻文といい、込み入った哲学的主題といい、弱冠17歳(だったはず)で書いた劇とは思えない、まさに天才の仕事である。おもしろい。
だが、しかしこれは「難解な劇の内容を読み解く」ことが――あるいは、難解なドイツ語の文意がだんだん理解できるようになる過程が――おもしろいだけで、戯曲の内容そのものはぼくにとって物凄くどうでもいいもののように思えてならない。いや、実際、どうでもいい。
どうでもいいことがおもしろい、というのはどうも腑に落ちない気もするが、なんかしらないが世の中そんなもののような気がする。
ごちゃごちゃ難しいことを言いあって、互いにそれを読み解く、みたいな議論はおもしろかったりする。だが、それが実はどうでもいいことである可能性は極めて高い、ということは誰もが認識しておくべきことだ。
先日もデリダの追悼記事について書いたが、あのあと別の追悼記事を読んだら、「デリダが存在するというだけで、この世界はどれほど恩恵を受けていただろうか。彼の喪失が、現実世界に多大な悪影響を与えるだろうと危惧している。破滅につながらないことを祈る」みたいな論調だった。すごく恥ずかしいと思った。どうでもいいんだよ、哲学者の存在なんて割と。
勢古浩爾の『思想なんかいらない生活』というのはなんかそんな話らしい。おもしろそうなので読んでみるつもり。
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