SFマガジン4月号、安倍吉俊の表紙がイカす。
で、「ひとりっ子」について、なわけですが。
正直、イーガンの視点の取り方にこれほど違和感を覚えたのは初めてかもしれない。視点の取り方、というよりは問題意識というか。
以下ネタバレなどしますのでご注意ください
多世界解釈を認めた場合、ある個人は、次の瞬間に取りうるすべての行動を強制的に取らされることになってしまう(多世界をひっくるめて考えると)。ということはつまり、「この世界」における私的体験は、自分によって選ばれたものではなく、自分が取り得たすべての行動の中から偶然選ばれた行動でしかない、ということになる。
主人公は、その事実が人間の個性というものを抹殺することにつながっていると考え、思考の量子状態を、出力が決定されるまで外界から遮断する方法を編み出した(ちょっとニュアンスは違うが、おおむねそういう内容だ)。そうすれば、その個人の思考によって世界が分岐することは決してない。特定の状況化におかれたその個人は、完全に決定論的に、その状況に対する行動を選択することになる。
でまあ、イーガン的にはその「同一の状況下では必ず同一の反応を返す」思考回路こそが真に個人の個性を表すものだという結論に至ってしまう。
なぜかそのことに反発を覚える自分がいるのだが、その理由を簡単に説明するのは難しい。「特定の状況下」にあっても、たまには違う反応を返してみたいじゃないか、という感じだろうか。私には完全に決定論的な自分という考え方が、偶然に選ばれた自分という考え方よりいくらかでもマシであるようには思えなかった。
決定論的思考回路であるヘレンはこう言う。
「たったいま、ほかのバージョンの自分はこの同じ場面でもっとうまくふるまってるかもって考えられたら、あたしがもっといい気分になると思う?」
ならばこう答えよう。
「君はどうか知らないが、少なくともぼくは悪い気分はしないな」
mail:gerimo@hotmail.com