ぬいぐるみが神様なんじゃなくて、ぬいぐるみの中に神様がいるのです。どうしてその差がわからないのだろう。
TVアニメ版のAIRを見ていると、自分はこれほどまでにAIRの細部に思い入れがあったのかと再認識させられる。あと一歩で(あの尺の中では)完璧な仕事になるのに、と忸怩たる思いを抱えて。
もうひとつ再認識させられるのが、AIR編って麻枝准のことばがなかったらただのつまらなくて厭な話に過ぎないということか。自分が麻枝准の作品のどこに、そしてなぜ惹かれているのか、ということをいろいろと考えてしまった。
いずれにせよ10話は演出が拙すぎたと思いますけど。
しのまいかが恐竜のぬいぐるみを見つけるくだりは、あの物語中もっとも美しい奇跡(もちろん、夏祭りのシーンになるまでそのことは隠蔽されているが)だと思うんだけど、そらの努力が完璧にカットされていたことと、台詞回しが端折られ過ぎなことが相まって、どうしようもないただのご都合主義伏線シーンに変貌。原作風に表記してみるなら――
【女の子】「おかあさん、これ、かみさまだよ。ひとりであるいてたもん」
母親はぬいぐるみを拾い上げた。
【母】「まだ、新しいみたいね」
【母】「ここに置いておきましょう。ここが神様のお家だから」
【女の子】「うん」
母親は賽銭箱の上にそれを乗せる。
女の子は手を合わせた。
……うーん。
ちなみに原作の該当シーンは、ここの335に抽出テキストが載ってます。
いやしかし、あのシーンに思い入れのない人がこの文章を読んでも、私が何にこだわっているのかすらサッパリ理解できないだろうなあ。客観的に見ればちょっと勘違いしちゃったアイタタな狂信者ってだけですね、私。
それでも絶対、この気持ちを共有してくれる人がいくらかはいるはずだと思うのだ。
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