旅をすると大概は風邪を引いたりなんだりで具合を悪くする性質だったけど、今回はまったくもって元気なまま帰ってこられた。すばらしい。
うむ、こんな12話を観たなら、確かに石原監督がどこかAIRの重要なベクトルを外しているということを原作ファンのぼくは述べなければならない。アノマロカリスには感激したけどな! なるほどimakiさんが第1話について述べている気持ちも、ちょっぴりわからないではない(ただ、冒頭シーンについて、後のAIR編の当該部分を見ずに批判するのはさすがに先走りすぎだと思います)。
しかし何にせよ、スタッフが「お仕事」として以上の愛情をこめたものに仕上がっていることに、ともかくも感謝するのだ。
そもそも麻枝准の作品はもともとドラマではないと思う。なのに表面的には形式はドラマになっていて、それを足りない尺で映像化すると言ったら本当に芯からドラマにしてしまうしかないんであって。
そんな厳しすぎる制約の中、どこか寂しくて透明な夏休みを、可能な限り実現できていたんではないかな。特に11話の映像作品としての味はなかなか。まあ、夏休みの情景については作品のコアとは関係ないと思ってるぼくなんですが(麦秋の夕暮れや冬晴れの丘や桜の咲く坂道なんかと同列にあるイメージのひとつでしかないわけで、そのどれを選んでも変わらないものがコアとして存在するんじゃないか)。
麻枝氏の作品のコアを他の形で再現するなんて不可能だと信じているので、このアニメにもそんなことは求めてなかった。コアの一階層上まで掘り下げてくれればそれは凄いことだし、あと一歩でそれを実現できる位置に漕ぎ着けていたように感じた。
というか、原作に浸りきって作業をしていたというスタッフの面々は、imakiさんの指摘に対して、そうせざるを得なかった理由を挙げられるレベルにいるんじゃなかろうか。(自分でこんな文章を書いておいてなんなんですけど)
自分のこだわる作品の読み方が「正しい」とも限らないですしなあ。もちろん、どこかに「正しい」があると思って読んでしまうのも確かで、自分の読み方が「正しい」と信じてしまうのも確かではあるが。
読み方の話ついでに、アニメAIRについて、ぼくの「正しい」基準からすればちょっと考えられないような誤読にリンクを貼っておこう。
要するにアニメ版の「可愛い」強調ぶりはあの観鈴をもちゃんと「普通の萌えキャラ」に仕立て上げていたらしい、という。
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