クロゴキブリだった。防音室の中で練習中、突如として目の前に現れた。扉から見て左側の壁面。移動をしばし中断し、ゆっくりと触覚を揺らしている。
「ばかめ!」
うちは、正式な防音工事をする余裕がなかったため、コンテナ型の防音室を家そのものの一室内に設置するという形をとっている。そのコンテナが、いま俺がいるこの場所だ。のっぺりした六面体で、扉と、天井の通気口を除けば外部に通じる穴など一箇所もない。扉も、閉じてしまえばゴムのパッキンで塞がれ、髪の毛一本分の隙間すら残らない。
つまり――ここは、完璧な密室になるのだ!
「ふはははは。貴様はふたつ、過ちを犯した。ひとつは、逃げ場のないこの場所に、どうやってかのこのこと入り込んだこと。そしてもうひとつは――」
大きく息を吸う。
「この部屋の主がこの俺様だということだぁぁぁぁ!!!!」
「……なんか論理的につながってなくない?」
「うるさい。せっかく盛り上がってるのに水を差すな。ともかく、ゴキブリよ。おまえはもうオシマイだぁ」
しかし、ピアノの上で叩き潰すようなことはしたくない。死骸や飛び散った中身が、弦と弦の錯綜する内部構造へと吸い込まれてゆく様子を想像して身を震わせた。スプレー剤を使うなんてもってのほかだ。液滴が楽器にかかっては困る。
ならばどうする。しばし考え、俺はビニール袋を取りに走る。口の部分から裏返し、袋の底が手のひらになじむ様に右手に装着する。戻ってきてもまだ、ターゲットは壁面にへばりついていた。
ふふふ……このまま……手づかみにしてやるっ!
「覚悟はよろしいかっ!?!?」
「ずいぶん威勢のよろしいこと。さっきあれが出てきた瞬間やたら驚いて情けない声あげてたわりにはさあ」
「黙れ。俺をなめるなよ。これでもプロのGメンなんだ。そして――」
大きく息を吸う。
「GメンのGは、GOKIBURI のGだぁぁぁあああああ!!!!」
「力入ってるのはわかったけど……途轍もないくらい意味はわかんないからね……」
情報を制するものが戦闘を制する。まずは周囲の分析だ。
Gに逃走を許すとすれば、その経路は天井の通気口をおいてほかにない。天井まで登らせてはならない。これが第一の優先事項だ。頭に刻み込む。
次に、室内に、Gが逃げ込める場所はどれだけあるか。まず、ピアノ内部。ここに逃げ込まれると見失う危険もあるし、少なくとも当分は手が出せなくなる。これは避けねばならない。だが、ここに逃げ込むにはピアノの足を伝って登る必要がある。それさえ阻止できればまず心配はないはずだ。
床面には置かれた楽譜や掃除用具その他の隙間がある。これは持ち上げてひとつひとつチェックすれば、Gを再びむき出し状態にすることは比較的容易であるはずだが……。
床そのものに敷かれたカーペット。これは、かなり重い素材であり、床との間にGが逃げ込む危険はまずない。
壁面を忘れてはならない。打ち付けられた吸音材の板が複数ある。縦80×横40センチほどの板で、これと壁そのものとの間にはおよそ7ミリの隙間があいていた。
現在のGは、この吸音板のひとつのすぐ横に位置している。俺が奴なら、何かあったらまずはその隙間に逃げ込もうとするだろう。ならば――作戦は決まった。
吸音板の方面、やや上方から手を近づけ、奴を鹵獲する。失敗したとしても、このベクトルであれば、天井と吸音板の隙間、両方への道を閉ざすことになり、奴は床へと逃走するほかないはず。
「やあああああ!」
裂帛の気合とともに手を振り下ろす。かすかに、何かをつかんだような感触。
「やったかっ」
慎重に手を緩め、様子を見る。だが。……そこには、奴の姿はなかった。
「くっ。逃がしていたのか」
「あはははは。あんた、それビニール袋がちょっとよじれたところつかんでただけじゃん。バカみたい」
「なにおうっ」
しかし、今の勘違いのせいで見失ってしまった。しかも……俺は致命的なミスを犯していたのだ。
「と、扉を閉め忘れているっっっ!?!?」
あまりに間抜けだ。まさか……外部へ? いや。あきらめるのはまだ早い。まだ内部にとどまっていると仮定して慎重に行動を続けるべきだ。扉を閉ざす。
俺は意識を集中し、見失った奴の気配を感じようとした。どこだ……どこにいる……。だが――
「くそっ、換気音に邪魔されて気配が読めない……!!!」
完全な密室になるだけあって、内部に明かりを灯せば、通気口内部の換気扇は自動的に回り続ける仕組みになっている。これを止める手立てはなかった。気配が読めない以上、吸音板をひとつひとつはがし、虱潰しに奴を探すしかないのか……そう思いかけた瞬間。
「ねえねえ、あそこっ」
「なにっ?」
部屋の奥、ひとつだけ外して立てかけてあった吸音板の表面に、奴はいた。
「丸見えだ。バカなやつめ」
えーと、ここまでしっかり読んでくださった方はまずおられないと思いますが、なんだか書いてるほうもバカバカしくなってきたのでもうやめます。最終的には、ちゃんと手づかみで捕まえ、生きたまま袋の口を縛って、家の外に置いてある生ゴミのポリ容器に捨ててきました。潰して殺すってのもなんだかあまり気分がよくないもので。奴がビニールを食い破ることが出来れば、生き延びる道も残っていることでしょう。
読んでくださった方がもしおられたなら、ありがとうございました。ぺこり。
mail:gerimo@hotmail.com
読んだよ(^^)。