「仮定の話なんだけど、髭剃りを終えたとき、剃り残しだらけな上に顎を血だらけにした男がいたとする」
「うん」
「どう思う?」
「どうといわれても」
「彼は幸せか?」
「そうは思えないなあ」
「ふふ。それが君の限界なんだよ」
「どういう意味だよっ」
「こういうことだって考えられるんだ。たとえば、彼にとって、剃刀の刃で顎の皮膚が切れる感覚はこの上なく甘美なものだ」
「それ、おかしいよ!」
「さらにあとあと、剃り残したヒゲを爪で引っ張りながら傷跡を広げるのがまた楽しくて仕方がない」
「ヤバイ人じゃないか!」
「だからね、彼はわざとそうしたんだ。彼はいま、幸せなんだ」
「俺なら今すぐそいつのそばから逃げ出すぞ」
「とにかくさ。そういう可能性に思い当たることもなしに、君はこの世界をわかったつもりになるべきではないってこと」
「思い当たりたくないよ……」
「まして彼に、プロテクターつき3枚刃首振りヘッドのシェーバーをプレゼントするようなのは、何の役にも立たないばかりか、迷惑だ。君が人を思いやったつもりのとき、そういうふうに真剣に考えてから行動しているのか?」
「常識的な範囲内で考えさせてください」
「その常識というのは誰の常識なんだ。誰が決めてるんだ。君は、なんだかんだ言って文化に毒され、思考のベクトルが狭まっているだけなんだよ」
「どちらかというと狭めていただけたことに感謝したい」
「ともかくさ。君は君の感性を根拠に、人を馬鹿にしたりすべきじゃないんだ」
「ただ、逃げ出すことを許されるのみ」
「そう、逃げ出すことを許されるのみ」
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