昨日の犬の糞を構成する一要素について。私が作品表現の類に対して持ついちばんのこだわりというのは、それがどれだけ本気で作られたものか、ということのようだ。これはなぜなのかよくわからない。ついでに、それがどれだけ本気で作られた物であるかについて、自分は正しく判断できている、という信念がどこから来るのかも。
ともかく、昨日書いた田中ロミオの過去作を評価してない云々、というのはモロにそこに引っ掛かっている。なんでか知らないが私にはあれらが、作者が作りたくて作ったものでは決してない、と思われた(結果的にそれは正しかったのだが)。だから、そのような小手先のモノを平気で世に送り出して世間を騙そうとする作者に対して憤ったのだった。
ところが後に作者はそのことを告白した上で苦悩の声を漏らすのだから、私の憤りの矛先は間違ったものに向いていたというわけだ。そういうことだった。
一定水準に達した作品を量産している(と多くの人が評する)某ライトノベル作家について私が嫌悪の情をあらわにしたのを目撃した方がおられると思うのだが、要するにその創作姿勢が私の神経を逆撫でしているというごく個人的な理由によるところが大きい。それは作品のレベルがどう、というのには関わりのない問題なのだ。ああいう作者は、『想刻のペンデュラム3』のあとがきのページでも食べて正しい創作姿勢を勉強すべきなのだ。あ、いや、『ペンデュラム』の内容は別として、姿勢の話。
といったことについては私と会話した人間はウンザリするほど聞いているに違いないが、一度ちゃんと文章にしておきたかったので書いてみました。自分の嗜好についてきちんと分析を加えてなんとかできると良いなと思う。
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